風流人日記

医王整体院 院長のblog

坐禅に学んだこと

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 先日、生まれて初めての体験となる坐禅会に参加しました。そこで私が気づいたのは、ひと言でまとめてしまうと「この世は支離滅裂である」ということかもしれません。だからそのことを伝えるのは容易くはなく、話が支離滅裂になることをお許しください。
 その支離滅裂をなんとか納得いくようにまとめあげようと苦しんでいるのが我々の姿で、特に近年は複雑な世の中を分かろうと一生懸命情報を集めて疲れている人(私もそういう傾向があり反省しています)が多く見受けられたり、それでも分からず考え過ぎて疲れ果てた末に、大きな声で物事を断言する人の言葉に振り回されたりする傾向(これには私は該当しません。必ずまず疑ってかかる素直じゃない性格ですから)を強く感じます。分からないまま中腰でいることに、みんな堪えられないのです。これは早く答えを出すことを子どもの頃から求められ続けた弊害かもしれません。大人になってもそのクセは抜けず、じっくり時間をかけて自分で考える事をしないで、正しいかどうかも二の次に、誰かに「こうである!」と即座に声高らかに明言してもらうと、きっと安心していられるのでしょう。

 「分かる」というのは「分ける」こと、つまり分析することだと言われています。しかし、より詳しく知ろうとして、一つひとつの事象を分断して細分化すればするほどその実態から掛け離れてしまいます。大事なのは「全体」だと思います。何もかもがまとまりなく、しかしある法則(それが果たしてあるのかどうかもわかりませんが)に則って常に移り変わっていく姿こそがこの世の中なのだという気がします。それを偏った判断をせず、複雑なまま、分からない(分けない)まま、分からないということがわかった上で、ありのままに全体を受け容れることが大切なのだと気づきました。それはつまり、複雑さに耐える力です。
 そんなことを坐禅が終わった後、ぼんやりと考えました。それと坐禅がどう関係あるの?と言われると思います。実は私はこれまで座禅や瞑想は、意識をなにか一点に集中することによって乱れた心を落ち着かせるものだと考えていました。ところがこの度教えられたことは、人間はどんなに余計なことを考えずに「無になろう」と思っても、脳は自動的に次々と様々な思考や感情を作り出すということです。いかなる人もそれを避けることはできません。しかし、その様々な思念の一つひとつを捕まえず、判断せず、浮かんでくるままにぼんやり眺めていると、それらが浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくることがわかります。この世は無常であり、先に書いた支離滅裂で複雑な状態が現れてくるのです。その正体がなにかということをつい知りたくなりますが、そこに脚を踏み入れず浮かんでくるままにしていると、ある一瞬その思考と思考の「隙間」に気づいたのです。それがはたして「隙間」と呼んでいいものか、それこそが「全体」なのかわかりませんが、その瞬間、とても自由な気持ちになりました。このあたりは言葉にするのがとても難しいのですが、「平和で」「なににも縛られない」「そのままでいい」「楽な」といった、やはり「自由」という言葉が一番しっくりくる開放感に浸ることができたのです。カラダも力が抜けてとてもリラックスしている状態でした。

 一つのことにしがみついてしまうと他が見えません。たとえしがみついても、それはいつまでもしがみつけるものではないのですが、しかし、漸くしがみつくことをやめたときにはもう別のしがみつく材料が現れます。つまり、常に変わり続ける事象とは無関係に、いまここで見ているもの聞いているものはすべて脳と心が作り出しているものだということです。自分が都合のいいものだけを見、耳に心地のいいことだけを聞く。いや逆のケースもあるでしょう。過去の嫌な体験にばかり心を奪われたり、聞きたくもなかった悪口にいつまでもこだわり、いま目の前にある喜びに気づけないでいるのが人間です。実生活ではいつもいつも「自由な心」でいることなどできません。だから時々静かに自分の心の状態を観察し、なにかに執着していることに気づき、修正する機会が”瞑想”というものだと知りました。
 人の一生は長いようで短いものです。なにもかもわかるには短すぎる時間です。きっとそのようにできているのでしょう。たとえば誰かのことをなにもかもわかってしまうと、もう次に会う楽しみがなくなってしまいます。謎は謎のままにしておくほうが生きる楽しみになるのではないでしょうか。(実際には変わらないと思っているその人も変わり続けているのですが、、、。)

 初めての座禅会でこんな気づきがありましたが、おそらくそれもほんの入り口を見ただけで、実際はもっと奥の深い複雑なものだと思います。
 うまくまとめようと思いましたが、やっぱり支離滅裂ですね。どうか複雑なまま受け容れ、その複雑さを味わってください。

注射が怖い、検診も嫌い

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 あの一休さんはお正月に「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という歌を詠みました。年の初めから縁起でもないと叱られるかもしれませんが、いろんなことをいつもと違う視点で考える絶好の機会であるお正月だからこそ、私もあえて物騒な話をさせていただきたいと思います。


 「お客様、どれにいたしましょうか? がん、脳卒中心筋梗塞、肺炎、その他にもさまざまなコースをご用意しておりますが、いかがいたしましょうか?」  そんな質問をされたとしたら、あなたならどう答えますか?ほとんどの方は、どれもいやだけど、できればコロリといきたい、そう思われるのではないでしょうか。  私たちは産まれる時期も親も選ぶこともできなければ、死ぬ時期も死に方も選ぶことができません。そう、生老病死はコントロールできないのです。コースどころではありません。明日なにが起こるかもわからないのです。  なにかの病気になって、それが原因で命を落とすこともあれば、その治療に専念して病いから脱出することもあります。しかし、最終的に何によって最期を遂げるかは誰にもわからないのです。


 そんなことを考えると、いくら無料クーポン券(いやあ、これが届いた時には本当にびっくりしました)をもらっても、私は積極的に検診を受けたくはないと思うのです。まあこの歳まで生かしてもらえ、また目前に危機が迫っていないからこそそんなことが言えるのかもしれません。  一概に検診を否定することはいけないと思っていますが、ある程度の年齢になれば、なるようにしかならないと覚悟を決めるしかないのではないかと思うのです。小心者の私など、早期発見とか言われて検診で下手にがんなど病気を発見されたら、そのショックで寝込んでしまわないかと、そちらのほうを心配してしまいます。

 先日こんな研究がBritish Medical Journalという権威の高い医学ジャーナルに発表されました。

 がん検診を受けても受けなくても生存率に変化なし。がん検診によって実際に患者の生存率が上がるかどうかは疑問視する。  特定のがんと診断された患者層が、そのがんを直接原因として死亡する例が減ったのは3種類にとどままった。別の原因も含めた、調査期間中に死亡した患者総数は、早期の検診を受けなかった患者層の全体的な死亡率と比較して、まったく変化がなかった。  早期のがん検診によって、がんによる死亡率が減っても全体の死亡率が減らない理由はまず、がん発見後の治療が患者の身体に与えるダメージが大きく、その治療が原因で命を縮めてしまう患者が少なくないこと。次に、がんと診断されることの精神的なダメージ。3つ目の理由は、腫瘍がすべてその後も生死に影響を与えるほど大きくなっていくわけではなく、そのまま置いておいても死につながらない腫瘍もある。つらい治療を受けさせることで、かえって患者に身体的、精神的なダメージを与えてしまい早期の発見が生存率を高める効果を発揮するにはいたっていない。

 これを読んで恐がりでいつも検診を避けている私は慰められる思いでした。   
 といってもこれはケースバイケースで早期発見できたことによって治療がうまくいき長生きする例もあるでしょうし、この報告のように知らされたことによって寿命を縮めてしまうこともあるでしょう。その選択はとても難しいことだと思いますが、いっそのこと「見ざる聞かざる言わざる」式に、運を天に任せてしまうという選択肢もあるということだと思います。
 検診を受け、無罪放免になって一時の安心を得るのもひとつのやり方ですが、私のような検診を受けない恐がり屋を安心させてくれるこのようなデータもあるということです。真似をするも批難するも皆さんのご自由ですが、私と同様に検診恐怖症の方にはちょっと安心できる材料ではないでしょうか。


 肝心なことは、自分で制御できることとできないことを分けて考えるということだろうと思います。そしてできることはその範囲で精一杯やる。例えば病気になりにくい身体を作るために食事や生活習慣を工夫し、日々養生に努めることは自分でできます。  先の論文に書かれていることがすべてではないでしょうが、安心や不安といった心の状態が身体に及ぼす影響が少なくないのは間違いないことだと思います。不安も安心も人が作り出すものです。つまりそれは物語ですから、出来事をどう捉え、どういう物語を描きながら生きていくかはその人の考え次第ですが、やるだけのことをやったら後は天に任せるくらいの気持ちがないと、いつまでも安心は得られません。一休さんが言いたかったのも、めでたさばかりを求めていてもそれは叶わない。めでたくないこともたくさんある現実を受け容れるニュートラルな心を取り戻しなさいという戒めなのだと思います。  本当の安心が宿るのは、深い呼吸による無駄な力が抜けたカラダと、天にお任せするという覚悟のような気持ちが生まれたときなのではないでしょうか。

「聴く」ことから始まる

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 これで「聴く」というキーワードをテーマに書くのは四度目です。様々なカラダと心にまつわるテーマを取り上げた中で、この「聴く」ことを何度も書くのは、やはり人間同士が生きていく上で話すこと以上に重要なことだと考えているからです。


 誰にも不平不満はあります。それを溜め込んで一人で苦しまないためには、誰かに聞いてもらうことが大切です。その機会がなければ、いつか不満はなんらかの不幸な形で爆発してしまいます。といっても、いくら自分はこんな不満があると相談に乗ってもらっても、すぐによい答えを得られるとは限りません。それでも自分の中に溜まっていた不満や怒り、うまく言い表せないモヤモヤとした気持ちが、誰かにただ静かに聴いてもらうことによって、少しは落ち着いていくということは以前にも書きました。

 一人ひとりの悩み以上に、民族間の紛争、国と国との難しい問題などは、ちょっと話し合ったところでお互いが納得できる解決策が出ることはないでしょう。
 しかし、肌の色が違う、信仰するものが違うというだけで、彼らとは話し合いにもならない、考え方が違う、言ったところで分かるヤツじゃないなどとレッテルを貼ってしまって、相手の言い分を聴くこともせず力で従わせようとしたり、あるいは無視を続けていては、いつまでも対立関係のままです。国際的な大きな問題も、まずは隣人の話を聴くところから始まるのではないでしょうか。いや、それをしてこなかったことが結果として取り返しのつかない事態を招くのではないでしょうか。  そんなことを、先日パリで起きた悼ましい事件に接して思いました。この問題は私が考えるほど単純な問題ではないことは重々承知していますが、それだからこそ当面の対策だけに留まらず、「聴く」という原点に帰って考えなければならないのではないかと思ったのです。

 話せば分かる?そんな考えは甘い、きれいごとに過ぎない、またお前は人殺しの話でも聴くのかと言われるるかもしれません。たしかに今テロ組織に対話を求めても拒否されるでしょうが、私が言いたいのは、人殺しという過激な行動に至らざるを得ないほど彼らを追い詰めたのが対話の窓を開かない態度、つまり差別や貧困の放置ではないかということです。だからこれは一方だけの問題ではありません。話すということも聴くという行為も相手があってのことです。対話を始めるにはまず相手の存在を分け隔てなく認めることが大切です。「話し合える相手ではない」と決めつけてしまっては何も始まらないどころか、それこそが憎しみを深める負の力になります。

 銃で襲撃されたパリのカフェはオーナーがユダヤ人で奥さんはイスラム教徒でした。いろんな社会階層、人種、宗教の人が集うその店は、フランスの共生社会を象徴していてとても居心地がよかったそうです。妻まで失ったそのオーナーは「我々は他者なしでは生きられない。さまざまな人種、宗教がミックスすることで文化が生まれる」と言ったそうです。その店に集まる人たちは、お互いの違いを批判することなく興味を持ち尊重することによって、自分にない様々なことを相手から吸収し、新しい価値観を生みだしていたのでしょう。そんな受容的な空気が流れる店だったのだと思います。  違いを超え共感を持って受け入れる聞き方こそが「聴く」ということです。ただ一方的に自分の主張を訴えられては誰でも拒絶感を持ちます。反対に、相手の話を先入観を捨ててひたすら「聴く」という態度は多くの果実を生み出します。

 パリの人たちの悲痛な叫びばかりが報道される中、私自身どれほどシリアの人たちや各地の難民のことを分かっているのかと問われると、まことに心もとないのですが、少なくとも思いを致すこと(これも聴くことの一つでしょう)だけは忘れたくないと思っています。遠い国のこと以前に、震災のあった東北や基地問題に揺れる沖縄の人々の声なども。

 今回は少し固い話で肩が凝りそうですね。少し体がほぐれるように、最後に私が好きだったボヤキ漫才師、人生幸朗師匠のこの言葉で締めくくりたいと思います。 「まあ皆さん、聞いてください!」。

※これまで「聴く」というテーマで書いた記事もご覧ください。

カラダで聴く、カラダを聴く

痛みを聴く

ゆっくり書くという行為

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 脚本家の山田太一さんが若者たちのスマートフォンの指使いの速さについて言及されているのを新聞で読みました。「自分の内側にある本当の言葉はあんなスピードでは出てこないはずだ、ありきたりの単語でしか表わしていないのではないか」そういう主旨のことが書かれていて、たしかにそうだなと思いました。
 私も、自分のスマートフォンを操る指の遅さは棚に上げたまま、なにか若い人たちのあの指の動きに驚きと同時に違和感を感じていました。それは日々鍛え上げた訓練の成果ともいえるし、なんら否定するものでもないのですが、自分もそうなりたいとは思わないのです。若者たちからすれば、還暦過ぎのおっちゃんにはやりたくても真似できるはずないと言われるかもしれませんが、、、。


 実は、若者たちのような芸術的な指の動きは無理だとしても、なんとかもう少し簡単に文字を入力できたらと思いいろいろ探してみたところ、手書き入力ソフト(mazec)というものを見つけました。実際に紙に字を書くのと同じように、スマートフォンのタッチパネルに指やタッチペンで文字をなぞると、それがちゃんと活字に変換されるのです。画数の多い複雑な漢字はひらがなで書くと、それもちゃんと漢字に変換されます。一番最初に使った時はちょっと感動的でした。いまや、あんなことができれば、こんなものがあればと思うことは、ほとんど製品化されていることにも驚きを感じました。日本語は世界でも独特の言語です。こんなソフトを開発しようと考えるのも、やはり日本人特有のきめのこまかい発想でしょうね。

 その手書き入力ソフトを入れたのは、ただ便利で使いやすいというよりも、普段ノートにむかって頭に浮かんだことを筆を動かして書き、また少し行き詰まると筆を持ったまま考えるという日常のスタイルが、スマートフォンでどこででも可能だということに価値を感じたのです。私が普段ものを書くのは、なにかを記録しておくことと同時に、静かに心を落ち着けて考えをまとめる意味合いが大きい気がします。だからただ機械的に文字を打つのではなく、アタマで考えることと書く指の動きを一致させることを大事にしたいのです。
 コンピュータは便利なのですが、よほど慣れないとキーボードやボタンを操作することに気が散って考えることが止まってしまうことがあります。それを解消してくれるのがこのソフトです。じっくり考えながら書く、あるいは考えることと書くことのスピードが一致する、そういう人間時間を大切にした優れたソフトだと思います。

 何もかもがスピードと効率を重視した社会になりましたが、人にはそれぞれ自分に合うリズムや速さがあると思います。ですから、そんな社会のペースに合わせてばかりいては疲れてしまいますし、自分を見失うことになります。
 スピードと効率を考えてなにかに突き進んだ結果、振り返ると何も残らなかったという経験はないでしょうか? 結果がすべてではありません。その過程の一瞬一瞬を大事にすることが結果的にいいものが生まれることに繋がるのだと思います。


 古代の人の書くという行為は、ものを引っ掻いたり何かを彫って跡をつけるということだったと聞きました。時間のかかる作業です。しかしひたすらその作業に没頭することで自分と向き合い、ゆっくり流れる時間の中で自分の内面をそういう形で丁寧に表現していたのでしょう。
科学技術の進歩はありがたいことです。しかし、そのありがたさに甘えず、時には古代の人のように、自分を見失わないよう自分の時間をゆっくり歩く時間を持ちたいと思います。

 もうひとつこの手書き入力ソフトの面白いところは、活字に変換せずに手書きした文字のまま残すこともできるのです。このキーを打つと必ずこの文字が出るという規則的なことだけでなく、これだと同じ一文字にもその人の人柄が表れます。まあ字がヘタクソなのは露呈しますが、それも個性の一つです。

 スマホの入力にお困りの方、達筆自慢をしたい方もぜひお試しください。

腰痛治療革命 〜振り出しに戻る〜

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 去る7月12日にNHKスペシャルという番組で「腰痛・治療革命 ~見えてきた痛みのメカニズム~」が放送されました。ご覧になった方も多いと思いますが、これまで聞いてきたこととだいぶ変わったなあという感想を持たれたかもしれません。内容に関してはご覧になったとおりで、ここで詳しく書くことは避けますが、私なりの感想を書いてみたいと思います。

 そもそも、大昔からあった腰痛という「痛み」が、なぜいまや日本人の4人に一人とまでいわれるような「病気」になってしまったのか。そのあたりから考えてみます。

 昔はいったいどれくらい腰の痛みを訴える人がいたかは分かりませんが、おそらく現在と同じくらいの率で多くの人が腰痛を感じていたのではないでしょうか。考えてみても、昔は今のように交通機関も発達していませんし、よく歩きました。ボタン一つでお湯を張れるお風呂や洗濯機も冷蔵庫もありませんから、当然なにをするにも目一杯カラダを使って労働をしていました。重い荷物を肩に担いだり、腰に負担のかかることは日常茶飯事だったでしょう。それでも、もちろん医療が発達していなかったこともあるでしょうが、そんな腰の痛みは、素直にただの「疲れ」として、誰かに腰を揉んでもらったり、たまには温泉にゆっくり浸かってカラダを休めて凌いでいたのではないでしょうか。そんな常に腰痛を感じていた昔の人たちが、なにも治療をせずこじらせて歩けなくなったなどという話は聞いたことがありませんし、そもそも腰痛を病気だとは誰も考えていなかったと思います。それが、医学が発達するにつれ、次第に「病気化」していったのです。

 腰椎椎間板の突出が坐骨神経痛を引き起こすということが最初にいわれたのは明治44年です。いわゆる椎間板ヘルニアですね。レントゲン氏がエックス線を発明し、身体の内部の様子を知ることができるようになって数年後のことです。

 エックス線の発明によって、それまで分からなかった原因不明の病いが解明されることもたくさんあったでしょうが、腰痛に関しては、これが裏目に出てしまったようです。つまり、本当はそれが痛みの原因でなくても、エックス線で本来の構造(形状)とかけ離れたものが写ると、それを痛みの原因だと考えてしまったのです。その後、ヘルニアを取り除く手術をしても良くならないケースが多発したためその理論は疑問視され、厳密な検証の結果、痛みの生理学が示した結論はそれは痛みの原因ではなかったということですが、それでもいったん医学の常識として定着したものは、なかなか簡単には覆らないようです。      

 番組でも触れていましたが、欧米ではもう20年前から従来の治療法を見直す動きがあり、国を挙げて経済的損失が多大な腰痛を撲滅するキャンペーンが行われたりもしました。それを思うとここへ来てようやく日本も追いついたかという感は否めませんが、いずれにしても、慢性痛で苦しむ多くの人のことを考えると、今からでも間違った治療法が改められ、回復への道がはっきりしてきたことは何よりも喜ばしいことです。

 過去にこのブログで何度も書いていますが、腰痛はそんなに難しく考える必要のない昔からあるカラダのごく自然な反応です。危険な兆候(麻痺や排泄コントロール不全)がなければ、痛みがあっても必要以上に怖がらず、少し休んだらゆっくりでもカラダを動かすことが大切です。

 昔と今で違うのは、昔は体の使い過ぎから起こる痛み、つまり「休め」というサインです。かたや現代の痛みは逆にカラダを使わなさすぎ、または同じ姿勢・同じ動作ばかり繰り返すことによって起こる腰痛がほとんどです。これは昔の「休め」のサインと反対の「もっと動かせ」というサインと考えられるでしょう。

 貝原益軒は「養生訓」の中で言いました。

「心は常に楽しむべし 苦しむべからず。身は常に労すべし やすめ過ごすべからず」

 益軒さんの時代以上に、現代社会は何かと心苦しむことは多くても、身体は苦しむほど動かすことはほとんどありませんね。  

 さあ、歩きましょう! 動きましょう!