あ・り・が・と
今回は時事ネタではなく(思い出すと気分が悪くなることばかりでカラダに良くないので)、祖父(ジジ)馬鹿ネタで一席お付き合いください。
いま世の中はウソや耳にするのも嫌な言葉、また心に響かない乾ききった上辺だけの美辞麗句で溢れかえっているように思います。なかには誹謗中傷のように、心に響かないどころか人の心を傷つける毒に満ちた言葉も蔓延しています。
そんな中、幸運にも私は素晴らしい言葉に出会いました。
それは「ありがと」のひと言でした。
誰もが毎日何度となく耳にしたり自分の口からも発するごく日常的なありふれた言葉です。
なぜそんな普段当たり前に使われる言葉が胸を打ったのでしょう?
結論から言えば、その「ありがと」は心の底から自然に出た、飾りも打算もない率直な感謝の言葉だったからだと思います。
ある日私の仕事場に、一時帰省している3歳になる孫が降りてきたのです。
さっきから上の階で泣き叫ぶ声が聞こえていたことからすると、きっと遊び飽きて退屈で何か別の刺激を求めていたのでしょう。
おばあちゃん(妻です)に連れられて私の仕事部屋に入ってきた孫の顔には、満面の笑みがこぼれています。
特に小さな子どもが喜ぶようなおもちゃや仕掛けは何もないのですが、あまり入れてもらったことのない部屋は珍しいものばかり、子どもにとっては宝の山なのかもしれません。
さすがにデジタル時代の子どもです。いろんなお宝の中でも、じいちゃんの机に置かれたパソコンには興味津々です。一緒にやるか、と膝の上に乗せてやった時です。
静かに、それでもはっきりとした声で、とても嬉しそうに「ありがと」と精一杯の喜びの気持ちをこの言葉に乗せて言ったのです。私には間違いなくそう感じました。
大げさに聞こえるかもしれませんが、60数年生きてきて、こんなに心に響く「ありがと」を聞いたのは初めてです。
同じ「ありがとう」を聞いてもこれほど感動するのは、言葉を話し始めたばかりの自分の孫だからという理由だけではないと思いました。何かこれまで何十万回と聞いた「ありがとう」とは異質のもので、まるで全く違う言葉に思えたのでした。
孫の「ありがと」のひと言で幸せに浸っていた数日の間に、ある本を開いて偶然にもこんな文章に出会いました。
「ありがとう」と言う日常的な言葉すら、それが心から発せられるとき、魂を揺り動かすほどの力を持つ。
情愛に満ちた言葉を不意に聞いたとき人は、慰めを感じる以前に、自分が確かに生きていることを自覚し、情愛をもって抱きしめられるとき人は、自分は確かにここにいると感じる。(若松英輔著「生きる哲学」)
なんということでしょう。自分が実際に体験した感動を、数日の間に開いた本の中から再発見し、その感動の確かさに深く頷いたのでした。
また若松英輔さんは次のようにも語っています。
生きるとは、自分の中にすでにあって、見失っている言葉と出会うための道程だとも言えるのかもしれない。
そうか、自分は心のこもった言葉を見失っていて、それをなんと60歳以上も若い幼い孫から気づかされたということなのだ。そして孫を抱く立場である私は、孫の情愛に満ちた「ありがと」という言葉に逆に抱きしめられたのだ。
迂闊に自分の口から出る心のこもらない社交辞令的な「ありがとう」や、他者に対する軽率な言葉がけを、大いに反省したのでありました。
コミュニケーションは言葉だけではありませんが、当たり前、ありふれた言葉の
一つ一つにも心を込めることから信頼関係は生まれるのだと思います。