風流人日記

医王整体院 院長のblog

言葉の力 あげたり貰ったり

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 なるべく自己否定をしないように、そして他人も批判しないようしよう、と心に決めています。でも、「他人の振り見て我が振り直せ」とも、常に考えています。他人は自分自身の鏡だと思っていますから。矛盾する二つの事項かもしれませんが、自分を否定はしないけれど、それに甘んじて傲慢であってはならないという自制心から生まれる考えだろうと思います。

 自己否定をしないということは、細部にはこだわらないとして、概ね I'm OK. ということです。しかし、これがなかなか難しいんですね。気分が好調・上向きなときはそれで行けるのですが、どうも何をしてもスッキリしないというようなときは、ついこんなことでいいのか!と、自分自身に突っ込みを入れてしまいます。

 やはり自分で自分を認め、赦すのは大変難しいことかもしれません。みんな、身近であろうと初対面であろうと、誰かしらから「あなたは素晴らしい」とまでいかなくても、「あなたはそれでいい。あなたの生き方でいい」と言ってほしいのだと思います。そんな些細なひと言が、元気の素になる。あっ、自分をそんなふうに見てくれている人がいるんだ。ちゃんと分かってくれている人がいるんだ。そう思うと、生きる力になります。いや、そういう意味からすれば、それは決して些細ではなく、その人の人生のそれから先を左右する重要なひと言かもしれません。

 結局、人は言葉によってどうにでもなるのですね。自己を陥れるのも言葉。落ち込んだ自己を甦らせてくれるのも言葉。それも自分自身に投げかる言葉であったり、人から受ける言葉であったり。

 そんなことを考えながら、自分はこの数ヶ月でそんな言葉を誰かからもらっただろうかと振り返ってみました。そして一つ、ふたつと数えるうちに、そんなことよりもっと大切なことを忘れていたことに気づいたのです。

 それは、自分が誰かにそんな元気が出るような、その人を心から肯定する言葉を贈ることをしたかどうか、ということです。

 そして、人は貰うだけでは幸せになれないんだと思いました。他人に与えることによって、初めて幸せな心になれるのだと。

 曹洞宗の開祖である道元禅師がその大著「正法眼蔵」のなかで次のような言葉を残しています。

  仏道をならふというは、自己を習ふなり。

   自己を習ふというは、自己を忘るるなり」

 この忘れるというのは忘却ではなく、「自己に執らわれない」という意味で、欲望や自己中心的思考に振り回されている自分に目覚め、そのような自分から解放されることをいうのです。

 人間はこうして「俺が、私が」と小さな自己に執らわれる「執着」という重い荷物を降ろし、自己と他者の壁が取り除かれた時に、初めて生きる喜びを感じ、心身ともに軽くなるのでしょうね。

 自己という殻を破り、相手の立場に立って一つの言葉を贈れば、それは「倍返し」になって戻ってくるかもしれません。

 まあ、私は別に倍までは望みませんが、、、。