風流人日記

医王整体院 院長のblog

「思い込み」と「呼吸」

 歳を取る毎に当然のことながら記憶は蓄積されていきます。それは大切な思い出からどうでもいい事まで含めると膨大な量です。

 とてもじゃないが全てを覚えていることなどできません。実際には脳のどこかには収まっているのでしょうが、奥まった所にあるものはなかなか引っ張り出すのが大変で、思い出そうとしても俄には出てきません。

 何度も繰り返し同じ情報が脳に入ると、記憶が収まった抽斗が大きく膨らんで目立つようになって、思い出すのが容易くなるようです。しかし、その情報が正しい場合は良いとして、間違った情報あるいは正しい情報であってもその解釈や受け止め方が間違っていたとすると、少しまずいことになります。それが世間で言う「思い込み」というものじゃないかでしょうか。

 「思い込み」は「勘違い」と言われることもあるように、世間ではあまり評判が良くありません。

 それはただの君の「思い込み」だろう、などと。

「思い込み」でものを言ったり行動して失敗することはよくあることです。「思い込み」を捨てて曇りのない目でものを見なさいなどともよく言われます。

 自分が正しいと思い込んでいたことが、何かをきっかけに間違っていたことを知る時がありますね。過去に意見の食い違いで気まずい思いをして、以来その人との関係に溝が入り、それだけのことでその人はこういう人だという固定観念が生まれて、距離を置いてしまうこともあります。 それがある時、偶然に再会したその人から思いもよらない言葉を聞いて、自分の「思い込み」を恥じるということもよくあることです。

 

 いろんな見方ができるのに一つの考えに固定してしまうのは残念なことだと思います。でもありのままにものを見たり解釈を多様に柔軟にすることは難しいことだし、一度できた「思い込み」を捨てるのは簡単ではありません。

 歳を取ると人の名前が出てこなかったり大事なことが思い出せなかったりしますね。物忘れは加齢とともに酷くなりますが、どうせ忘れるなら間違った「思い込み」の方を忘れてしまえたら良いのになあ、と思うのです。

 「思い込み」というヤツはなかなか頑固なものですが、老いの物忘れの力を利用すると、思い込みで埋まっていた脳の一部が抜け落ちて余白ができ、その余白にまだ知らない良い話や新しい素敵な記憶を入れたり、その空いた隙間をゆとりある対応力として使えるのではないでしょうか。

 

 良い呼吸はできるだけゆっくり長く吐くことだと思っています。古い空気を全部吐き切ることによって新鮮な空気をいっぱい身体に受け入れることができるからです。

 「思い込み」を捨てることも息を吐くことと同じで、捨ててできた余白にはきっと新鮮な空気のようなありのままの真実を受け入れることができます。溜まった空気と「思い込み」を息を吐くたび捨てて行けば、気の滞りのない良い気に満ちた元気な身体になるんじゃないでしょうか。

 それには「自分」というものをあまり強固な枠で囲わず、さまざまなことを受け入れられる風通しの良い余裕のある柔軟な心身にしておくことが大切だと思います。

 

 ことに最近ではインターネット上で「思い込み」を起こし易い情報が溢れています。一度何かを検索すると、それに関連する記事が頼みもしないのに次々と表れる。何かをネットショッピングすれば、次々類似商品が紹介される。またSNS上で多くの人が言っていると、それが真実だと思ってしまう。

 ネット空間は「思い込み」と「こだわり」を植え付けるマシーンのようなものでもあると思います。気をつけないと知らないうちに「思い込み」で頭はいっぱいになってしまいます。

 現実社会でさえ情報の真偽を確かめるのは難しいことですが、それ以上にビッグデータから巧みに練られたネット上の情報を上手に篩(ふるい)にかけるのは容易いことではありません。すべてが悪意ある情報だとは言いませんが、長時間ネットの世界に居続けることは避け、必要な時だけ利用する習慣を身に付けておかないと、底なしの「思い込み沼」にハマってしまいます。

 

 身体を持たないAI(人工知能)の進化は恐ろしいほどのスピードで進んでいますが、生身の体を持つ我々には肉体のペースというものがあるはずです。

 ゆっくり座って深呼吸する時間を作りましょう。

 そして一旦立ち止まってゆっくり考える時間を持ちましょう。

 

功徳池と因果一如

 前回は「コスパ・タイパ・バーチャル」をテーマに思いつくことを書きましたが、何かまだ書き足りなくて、今回もその続きを書きます。

 

 「コスパ・タイパ・バーチャル」の根底には、「損得勘定」があるのではないでしょうか。

 誰しも生きていく上で損をしたいとは思わないだろうが、損得勘定だけで生きていて上手くいくでしょうか?

 昔から「損して得取れ」という言葉もよく耳にしますが、さて損得というものをどう考えればいいのか。

 

 「功徳池」という話を聞きました。

 善い行いをすれば必ずその報いを得られるとは限らない。これを説明するのに仏教ではこんなことが言われています。

 天には「功徳池」と言われる大きな池があり、人々が善い行いをするとその池に功徳がどんどん貯まる。

 池がいっぱいになるとそれが溢れ出して”誰か”に報いが降りてくる。これをご利益(りやく)という。必ず自分に降りてくるということではないのです。

確かに日々善行を重ねていてもちっとも報いがないこともあれば、思わぬところで僥倖に巡り合うこともあります。

 利益(りえき)欲しさに行うのは善行とは言えないけれど、善行はその行為自体が自分にとって気持ちの良いことだからするもので、その報いを狙って行うものではないのでしょう。

 その気持ち良い行為の積み重ねが、思わぬ時にご利益として天から降ってくればそれで良いではないですか。

 功徳が自分の身にご利益として降りて来なくても嘆くことはありません。

 それが見知らぬ人の生きる力になればいいし、愛する人が幸せになれればなお良いではないでしょうか。

 いつの日かそれを見届けることができないとしても、善行そのものの喜びを、いまここで受け取れば良いだけのことです。

 

 この話を聞いて「コスパ・タイパ」を求める人たちはどう思うでしょう。

 自分に利益のないことを手間と時間をかけてする意味がどこにあるのだ。きっとそう言うに違いありません。

 こうすれば必ずこうなる、という考え方で生きていると、自分はこれだけ一生懸命にやったのになぜ報われないのか、そう思って落胆することでしょう。

 功徳池の思想を知っていれば、筋書き通りに物事が進み、必ず結果を得ることができないことを、受け入れることができるはずです。

 世の中は人智を超えた大きな力で動いているのではないでしょうか。

 

因果一如

 功徳に限りませんが、これをすれば何かいいことがあるという期待の気持ちは、すぐに心をここから未来へと離れさせます。スポーツでも勝とうだとか勝てるだろうかなどと、結果を考えながらやっているとだいたい失敗します。もうその瞬間、雑念で今が見えなくなっていまうのです。だから、結果を先々で受け取るという期待を持たず、今していることの結果はいまここで受け取る。これも仏教語ですが「因果一如(いんがいちにょ)」といいます。原因と結果は今ここに一つのものとして現れているということです。先のことは分からない。いい結果が出るかはやってみなければわからないし、この先自然災害に巻き込まれるかもしれない。それなら、今ここでしていることを楽しみそれを結果としていただいてしまおうということです。 今していること、今感じていることに喜びを感じる習慣ができると、それぞれがたとえ小さなことでも、心穏やかに上機嫌で楽に生きて行けそうです。

 金銭、時間、労力のことを考えながら物事を行うよりも、このほうが心の余裕ができるのでしょう。

 

ときどき何かが我が身のどこかに刺さる

 手の指先にそげが刺さる。足の爪が上手く切れなくて、切り残した爪の角が指の肉に刺さる。

 子どもの頃、眼球に先の鋭い何かが刺さったことがあって、目が見えなくなったらどうしようと不安になったことがある。つい最近もホッケの小骨が喉に刺さってなかなか取れず困った。

 また時には誰かの言葉が心にグサッと突き刺さることもある。

 

 いずれも事なきを得て、今ではその痛みも出来事さえもほとんど忘れてしまっている。

 それらのトラブルをクリアしていくたびに、「嗚呼、なにかに守られている」と感じ、ありがたいことだと「なにか」に感謝をする。

 その「なにか」の正体は未だ不明であるが、それはどうやら目に見える実態のあるものではなさそうだ。しかし自分はその「なにか」に包まれ、見守られて生きているのだという実感はある。

 そしてときどき刺さる「なにか」も、守ってくれる「なにか」と同じ種類のものかもしれないと思う。

 

 身体に刺さる「なにか」。心に刺さる「なにか」。

 どれもが生きていく上で避けることのできないものではあるが、いつもは忘れている「なにか」を気づくための大事なものなのかもしれない。

 

 観音菩薩は、状況次第でその人にとって必要な姿をして、必要な時に現れるという。

 

 

「コスパ・タイパ・バーチャル」とは無縁の世界

余白    余裕   余韻   あわい

静  寂  

歩く  観る  聴く  味わう  匂う  

感じる

     待つ    育てる    譲る

 身体      エンパシー     縁

ゆっくり    じっくり    慌てず    急がず

  遊び  そよ風  まわり道   風流

 

 何でもかんでも、やれコスパだタイパだと言っている人たちは、一体いつ楽しみを味わうのだろう。そんな余計な心配をしてしまう。何事も効率よく作業し早く終えて、余った時間を自分のために使おうということかもしれないが、その自分の時間さえも効率の思想に心が奪われていないだろうか。いつも何かに追われているかのように、、、。時間をかけなければ見つけられないこともあると思うのだが。

 昔は誰かに手紙を出したとして、相手に届いてすぐに返事を書いて送ってくれても4~5日は「待つ」という時間があった。ソワソワしながら返事を待つ時間というのも案外楽しみの一つでもあった。

 私の趣味の写真のことでは、写真を撮り終わるとフィルムを巻き戻し、そのフィルムをいそいそと写真店に持っていって現像とプリントをお願いしたものだ。そうして現像が仕上がってくるまでの数日を、上手く撮れただろうかとワクワクしながら待つことになる。

 

 このようにかつては何事にも「待つ時間」がセットとして存在した。今やそんな時代と比べて格段に便利になり、しかもあらゆる物事のスピードが速くなり、すぐに結果を得られるようになった。お陰で楽になった面も多いが、時間に余裕ができたかというと、そうでもない気がする。

 ほとんどの人が「忙しいいそがしい」とぼやいている。

 もちろん当時もひたすら待つだけで何もしないというわけではなく、同時進行的に何かを行う。何かをしながらも、心の片隅に待っている楽しみが一つでもあれば上機嫌の日々を送れたというわけだ。そうして待つというまわり道の途中に様々な発見やご縁があったりもした。

 

 昨今、米の値上がりと不足が大きな社会問題になっているが、これも育てるのには時間がかかり、自然環境にも大きく左右され、効率だけを考えると良いとは言えない農業を蔑ろにして、効率の良い工業に比重を移した結果ではないかと思う。

 農業は「作る」ものではなく「育てる」ものだと言われる。「育てる」のには手数と時間がかかる。「作る」工業とはわけが違うのだ。

 効率や時間ばかりに気を取られずに、生き物の時間を大切にしなければいけないと思う。生き物にとって何よりも大切なものは食糧だから。そして稲も生き物なのだ。

 効率や儲けばかりを追いかけて食糧自給率が38%にまで低下したことにとても危機感を感じる。

 肥沃な国土がありながらそれを放置し、海外から輸入した方が手軽で安いなどという発想は、安直でもったいなく、危険でもあると思う。

 

 

爪を切るとき

 

 爪切りをしている時間が好きだ。

 伸びた爪を切るのは、何日かの間に心の中に溜まったこと------良いことも良くないことも------を整理整頓することに似ていると思う。

 心の許容量は人それぞれに器の大きさに違いがあるから、どこまで受け入れられるかの限度はまちまちだと思うが、いずれにしても許容量を超えたものを抱えているのは辛いことである。そのはずだ。

 だから爪を切る。

 切りながら、ここまで伸びた時間の中で起きた出来事を振り返っている。

 辛いこともあった。予期せぬ嬉しいこともあった。

 しみじみとそれらの事ごとを思い浮かべながら、

伸びた、あるいは歪んだ爪と一緒に、心を整えていく。

 次第に気持ちが落ち着いてくる。

 嫌でたまらなかったことがなぜか愛おしくなって受け入れられるようになることもある。

 切ったままだと爪に角が立つ。角をやすりで整える。

 トゲトゲしていた気持ちが少し丸くなった気がする。

 爪は心の形を表す指標なのだろうか。

 すっきりして、また生きていく。

情報戦争に巻き込まれないように

 アメリカの大統領がトランプさんに代わるとどうなることかと、世界中の人たちが不安を募らせているようです。トランプさんは就任したら直ちに戦争を終結させると言っていますが、自国ファーストの国が増えると国同士がますます対立し、そこら中で戦争が始まりはしないかと心配です。いやもうすでに世界のあちこちで実際に戦争は始まっています。領土や水や食料や資源を奪い合うために多くの人の命が犠牲になっています。

 さらにインターネットの発達で世界中の誰でもが情報を発信・受信をすることができるようになった今日、”フェイク情報”といわれる形のない武器によって平和な国の人々も頭と心は戦争状態にさらされている状況です。

 そしてもう一つの戦争は、世の中の変化のスピードの速さとの戦いではないかと思います。中でも情報技術の進歩が、私たちの体内時計とは比べ物にならない速さで進んでいます。本来の人の体のリズムはこんなに忙しいはずではないですから、情報技術の速い進歩についていこうとすれば、体のどこかに無理が生じることでしょう。

 人の情報の入り口は目・耳・鼻・舌・皮膚ですが、SNSをはじめとした昨今のネット情報はほとんどが目と耳から入るものばかりです。つまりそれはある意味で偏った情報であって、言葉や音以外の皮膚感覚や体全体から入ってくる情報はむしろ減っているのではないでしょうか。不快なものも含め体全体で味わう体験でしか、本物か偽物かを見分けることはできないと思います。それとは反対に、目と耳だけから入る情報はなかなか記憶として定着せず、ただ雑多な情報として頭が混乱したり不安を煽ったりするものが多いようです。しかも実際に自分の体で体験した情報に比べて、真偽が疑わしかったり、自分にとって必要のないどうでもいいことがほとんどです。

 だから時に意識的に目や耳という情報の入り口を塞いだ方が体にもいいのではないでしょうか。そのことに気づいている人も多いようで、瞑想やマインドフルネスがブームになっているのもその一つの表れでしょう。

 世界中から発信される情報は、あまりにも大量で、あまりにもスピードが速いですから、それに乗り遅れまいとして必死で情報収集していると、いつか体も心も疲弊してしまいますから、一旦さまざまなネット情報から離れて、自然の中に身を置いたり、心身の平穏を取り戻す時間が現代社会では必要になっているのです。

 

 これは何も情報だけでなく、モノについても同じことが言えそうです。今の世の中、便利です、快適です、暮らしが良くなりますと、ものすごいスピードで新製品が出たり、まだ使える物を買い替えさせようと、欲望に火をつけるCMで溢れています。

 中には誰もが買い求めたくなるヒット商品もありますが、まあほとんどは見かけが変わっただけで中身はそれほど違わず、今使っているもので十分というものが多いのではないでしょうか。

 経済学者の佐伯啓思さんが「経済成長主義への訣別」という著書の中で次のように警鐘を鳴らしています。

 私たちは経済成長が人々を幸福にするという実に大きな「誤解」をしている。思い込みだ。すでに到達してしまった豊かな社会でこれ以上の成長至上主義を続ければ、人々の「ふつうの生活」は破壊され続けるだけなのだ。

 この本が書かれて7年経った今、経済成長は行き詰まり停滞したまま、モノや情報だけは溢れかえり、いったい我々は何処へ向かおうとしているのか、暗中模索の状態です。

 もう一つ参考になりそうなことを載せておきます。

 

 1991年に宮沢喜一さんが総理大臣になられたときに、「経済大国から生活大国へ」という方針転換を示され、「生活大国五カ年計画」というプランを発表されました。それをコラムニストの天野祐吉さんが「広告批評」で、政府の発表したものは堅苦しくて読んでる途中で寝てしまいそうだからと、我々凡人にもわかるように次のように書いてくれました。

目指したい「生活大国」とは、

①国民の一人一人が、日々の生活の中で本当の豊かさとゆとりを実感できる国

②多様な価値観を実現するための機会が、みんなに等しく与えられる公平な国

③大量生産・大量消費・大量廃棄の社会システムにバイバイし、美しい生活環境のもと、人びとが簡素なライフスタイルで生活を楽しめる国

 

 どうですか?素晴らしいプランだと思いませんか? 金の亡者なら眉をひそめるかも知れませんが、私は大賛成です。それにしても当時の自民党には、こんな発想を持つ方がいたことに、今となっては驚きです。

 しかし宮沢内閣はわずか一年余で終わり、こんな素敵なプランも計画倒れとなりました。その後も世界の先進国はどこまでも経済成長を目指して限りある資源を奪い合い、発展途上国との軋轢が強まるばかりです。しかし今、日本こそが率先してこの計画を実践し、人類の進む道を世界に示すべきだと思います。

 

 我々一般市民ができることなど限りがありますが、世界中に地球全体の未来のことを考え行動を起こしている人がたくさんいます。そんな人たちと手を繋ぎ、自分のできることを身近なことから実行していくしかないんじゃないでしょうか。

 

 日本では昔からの風習で、年末には身の回りを大掃除をして新たな環境と気持ちで新年を迎えたものです。最近はそんな風習も過去のものになりつつありますが、新しい習慣として、情報の「暴飲暴食」をやめ、押し売りにNOと言い、情報もモノも減らして、スッキリした新年を迎えませんか?

 

 そして風流人としては、もう少しゆっくりと時間を味わいながら過ごしたいと思うのであります。

 

にもかかわらず

 私も間もなく古希を迎える年齢になり、これまでそれほど気に留めなかったことをいろいろ考えるようになりました。

 人は何のために生きるのか? 人それぞれのお考えがあるでしょうが、それはやはり楽しむためではないだろうかと思うのです。

 楽しみ方それ自体も人それぞれです。自分がやりたいことを思う存分楽しめるのは幸せなことでしょうが、それだけで満足のいく人生と言えるでしょうか。

 人は決して一人では生きていけないのですから、自分の楽しみを追い求めているだけでは本当の幸せを感じることができないと思います。

 身近な人たち、遠い国の人々が、楽しみ方は違えども同じように生き生きと暮らしている様子を見ることができて初めて本当の幸せに浸ることができるのではないでしょうか?

 

 また誰だって好んで苦労はしたくないし、歳を重ねてもいつまでも楽しんでいたいと思うものです。しかし歳をとると、若い頃できたことが次第にできなくなる。反対に若い頃できなかったことができるようになることもあります。

 それにもかかわらず、人の欲望は留まるところを知らず身勝手なもので、若い頃できなかったことができるようになった喜びに気づかず、若い頃できたことができなくなるという「失ったもの」ばかりを嘆くものです。

 いつまでも若くありたいと思うのは多くの人の望むことでしょうが、そうはいかないということは肝に銘じておく必要があると思っています。希望を捨てろと言うのではありません。身体の変化によってできないことが生じるのは当たり前のことで、それにもかかわらず年相応のことができるという事実に目を向けそれをありがたく楽しむことができれば、少しでも穏やかに歳を取ることができるのではないでしょうか。

 

 

 貝原益軒は「養生訓」で次のように書いています。

「心を静にしてさはがしからず、いかりをおさえ、欲をすくなくして、つねに楽しんでうれへず。是養生の術にて、心を守る道なり」。

 そして、「楽(らく)」は現代の「楽して得とる」の「らく」ではなく、平静な心で生きることを言っています。

 益軒はこの有名な「養生訓」の三年前に「楽訓」という著作を著していたそうです。そこには人間いかに楽しむかということが語られています。そこで益軒が力説していることは、「楽しみはうちにあり」ということです。

 人の心のうちには生まれつき「楽」があるという。そしてそれは内なるものであり、人に乞い求めるものではなく財力によって手に入るものでもない。だから内なる楽しみを本としていれば一銭も費やさずに楽しむことができるといいます。

 豊かな人はその財物にとらわれ、地位のある人は忙しく、自然に親しむ暇も読書の時間もない。貧しいと、ものによる楽しみがないだけ、心による楽しみを楽しもうとする。

 また富貴であれ貧賤であれ、自分の授けられ備わった分限に安んじられる人は、真の楽しみを楽しむことができる、とも書かれています。

 これはまさに「足るを知る=知足」ということであり、科学が進歩し時代が変わっても、不変の考え方・生き方ではないでしょうか。

 

 このように益軒に習うことは多いですが、人間に定められた「老病死」にこれを当てはめると、老いて失うものをいくら財力で補おうとしても楽しみを味わうことはできずそれは苦につながるばかりで、その年齢なりに与えられたもの・できることに目を向ける方が喜びを感じることができるのだと思います。

 益軒が人生の楽しみの第一にあげているのは、自然を楽しむことです。「日月の輝き」「風雨の潤い」「鳥獣の鳴き動き」「草木の生い茂る」さまに接し、心を感ぜしむること。目の前に満ち満ちている「天の文(あや)、地の文(あや)」を見て感動することだと。

 山登りや海に泳ぐことも自然を楽しむことですが、益軒流の自然の楽しみ方は、年老いて体力が衰えたり病弱で障害があってもできますね。

 

 このように人生を楽しむことを説いている益軒は、もし不慮の出来事に出会っても、心を苦しめて楽しみを失ってはならない。心静かに思慮すれば、その災を逃れることができると言います。

 とは言うものの、身体のどこかが痛くて動くこともできない時、心が折れそうに辛い時に、果たしてそんな心の余裕があるだろうかとも思ってしまいます。

 だから、これが本当に実行可能なことなのか、正しい生き方かもわからないのに、人に押し付けることなどできません。

 でも私はそんなやり方があるなら試してみるしかないと思っています。辛く苦しんでいる最中にはどうしてもそのことにばかり囚われてしまいますが、少し角度を変えて見ればそこここに喜びや楽しさが存在していることに気づいていないと思うからです。

 私は苦しみにどっぷり浸かってしまうのは嫌だし、どんな時もちょっと目線を変えてみることを試してみようと思うのです。

 

 ユーモアとは、「にもかかわらず」笑うこと。

 

 せっかくの一度きりの人生ならば、保証はないし根拠もないかもしれないけれど、そう信じてやってみよう。

 辛いこと苦しいことだけが人生じゃないと思いたい。