風流人日記

医王整体院 院長のblog

もし小中学生が選挙に行ったら

 我が家が購読している東京新聞の毎週金曜日の発言欄は、「若者の声」として小中高校生の投稿が載ります。

 大人の投稿もなかなか鋭いなと感心するものが多いのですが、それ以上に子どもたちの生の声には身につまされることや耳の痛いことばかりで、我々大人はいったい何をしているんだろうと考えさせられます。

 「この若者たちに内閣を作ってもらい政策を推し進めてほしい」と大人から感嘆の声も届くそうです。

 

 7月10日の投票日に向けて参議院選挙戦が始まりました。盛り上がりに欠けるとか、どこに票を入れても変わらないとか、いろんな声を聞きますが、子どもたちの発言を読んだり、彼らの将来のことを想うと、私たち大人はもっと真剣にこの社会の問題を考え、そのことを本気で考えてくれる人を選ばなければいけないという気持ちになります。

 彼らにはまだ選挙権がありませんが、彼らならどの党に投票するだろう?彼らの声を政治に反映させてくれそうな候補者が果たしているだろうか?いろんなことを考えてしまいます。

 

 つい先日の「若者の声」欄より

「中学の思い出はコロナばかり。一人ずつ前を向いた黙食、歌えない音楽。数少ない行事の写真はそろってマスク姿」15歳女子

 「仲良くくっついておしゃべりしたい。距離を取らず肩を組みたい。僕たちのはかない願いは一体いつ叶かなうんですか」14歳男子

 「よく行く公園が封鎖された。ゲームばかりせず外で遊べと言われても一体どこで? 公園は子どもにとって大切な場所。今後の社会をつくる子どもの未来へ投資して」14歳男子

 「こんなに文明が発達してもなぜ戦争なのか。戦争は誰も幸せにしない。権力を持った大人たちにどうしたら伝えられるのか」十四歳男子

 「早く戦争をやめて、みんなが少しでも幸せに過ごしやすい国にするための努力を世界中でしてほしい」15歳女子

 最後に。「選挙権を持っている人は一人でも多く投票してほしいです。僕も選挙権がもらえる時までさまざまなことを学びながら待ちたいです」15歳男子

 

  どうですか、この真剣な眼差し。大人になることは諦めることでしょうか?

 

 この子たちの発言からも、今の理不尽な日本社会の問題がまざまざと浮かび上がってきます。

 重症化することが少ないにも関わらず子どもたちに我慢を強いるコロナ対策。目先の利益や経済ばかりを優先し、子どもの自由を奪う社会。何度繰り返しても戦争の悲惨さから平和の尊さを学ぼうとしない大人たちへの失望。

 恥ずかしながら自分がこの年齢の時にこれだけ真剣に世の中のことを考えていたかと問われれ、明らかにノーと答えなければなりません。

 いつも文句ばかり言っていたことといえば、もっと遊び時間が欲しい~とか、夏休みを長くして~とか、まあ子どもらしいといえばそうではありますが、他所の国で戦争があってもそんなことを考える間もなく遊び呆けていました。

 それは日本が平和であり、子どもにとっても自由があったからこそと言えます。

 確かに戦後77年間、日本は平和でいられました。それはひとえに憲法第9条があったからこそだと、私は考えています。

 最後部にその条文を載せておきますのでぜひご覧下さい。

 

 ロシアのウクライナ侵攻が長引く中で、世界各国は新しい安全保障を求めてさまざまな動きがあります。日本でも自民党を中心に防衛費の倍増、敵基地攻撃能力の保有など、憲法9条に反する動きが活発化しています。

 私は軍備を拡大することには反対です。それで平和が守れるとは思いませんし、むしろ近隣諸国からは東アジアの平和にとっての脅威と見られ、対立を招くことになると考えています。

 15歳の女子の投稿にあった「早く戦争をやめて、みんなが少しでも幸せに過ごしやすい国にするための努力」は、武力を拡大することでなく、外交手段によるものだと思います。

 

 今回の参院選は諸物価の高騰が最も身近な争点でしょう。それは戦争が原因の一つであることは確かですが、アベノミクスが招いた財政悪化と、大企業と富裕層への優遇政策のために一般市民の賃金が一向に上がらない問題も忘れてはなりません。

 「若者の声」欄に載せられた子どもたちの熱い声を真摯に受け止め、どの党、どの候補者が安心して暮らせる社会の実現のために本気で仕事をしてくれるかをよく考えたいと思います。

 まずは、みんなで声を掛け合って、選挙に行きましょう! 後で悔いても遅いですよ。

 

日本国憲法第9条

 条文

 第二章 戦争の放棄

 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

遠い国戦争から学ぶこと

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 人を信用するか、しないか。これはその人が過去にどれだけ人に裏切られたか、その体験の数によって左右されるのでしょうか。

 他人を信用すると大変な目に遭うという体験が多いほど人は疑心暗鬼に陥り、自己防衛のために強固な殻を作ります。そして常に相手を監視し続け、不穏な動きがあればたちまち臨戦体制に入る。

 そんなことを繰り返していれば、心休まる暇などありませんね。

 でもロシアの歴史はそんなことの繰り返しだったのかもしれません。

 いくらこちらが努力して信頼関係を築こうとしても、相手もそういう気でいるかどうかはわかりません。

 ではどうすればそんな疑心に満ちた相手を信頼関係を結ぶ気にさせられるか?

 一人の人と人との関係においてもこんな難しい問題が常に存在するというのに、より複雑な国同士の付き合いとなると、想像を絶する難しさがあります。何よりその前にたとえ同じ国の中であっても、大小の揉め事はいつだって絶えることがないのですから。

 そんな困難を乗り越えて国内国外ともに上手な付き合いをし、平和な国民生活を維持することが政治家の最も大事な仕事だと思いますが、過去を見ても昨今においても、なかなか賢く問題解決ができる政治家は多くはありません。大半の政治家は自分の権威と権力の座を守ることに汲々としているだけです。

 では、平和を維持し続けてきた国家は、どうやってそれを実現できたのでしょうか?

 それはやはり、才能豊かなリーダーや政治家の存在だけではなく、国民一人ひとりの意識の違いだと思います。もちろん善良な国民の意思を纏める力のある政治家がいることは理想ですが、自分たちの力によって平和を守り平和を享受できた実績を持つ民族は、自分たちで考え、強い意思を示すことが何より大切な国の資源だと考えていると思います。

 政治は政治家に任せてしまうものではなく、自分たちのもの、自分たちが不断の努力を続けなければ平和を守れないことを知っています。

 

 ロシアによるウクライナ侵攻が始まって一ヶ月が過ぎました。

 遠く離れた場所からできることといえば、一刻も早く戦争が終わることをひたすら祈るくらいしか思いつかないのはとても辛いことです。

 われわれ一般市民がウクライナのためにできることは祈ることしかないとしても、逆にこの戦争から教わることは多かったと思います。

 その間、日々様々なことを考え続けたましたが、一つだけ確かなことだと思ったのは、平和な(と思い込んでいる?)日本も、いつ戦争に巻き込まれるかも知れないという不安定さです。

 だから今できることは、ウクライナへの平和の祈りと共に、自分たちのそんな不安定な状況を少しでも安定させるために、もう一度過去の戦争を思い起こし、なぜあんなことになったのかを深く反省することだと思いました。時代は変わったと言っても、現にロシアは20世紀と同じような戦争を繰り返しているのですから。

 

一番肝心なことは、ああいう状態を放置し長引かせてはならないということです。

 ああいう状態とは、権力を握った者が何でも好きなように物事を動かせること。そして、それに反論すると容赦なく叩き潰される体制です。

 こんな状態が長く続くと、人々は権力の支配と同時に、自分たちの内の諦めの気持ちに支配されてしまいます。

 そして何か重大な出来事が起きたときには、これはいけないと思っても最早誰にも止められなくなっているのです。諦めや無関心は服従しているのと同じで、暴走を許してしまうことになります。

 強いものに逆らってはいけない、強いものに擦り寄ってさえいれば安住できる、と考えることがいかに危険かを過去の日本の戦争でもプーチンの戦争でも思い知らされました。

 「ああいう状態」とは、何も過去の日本やロシアのことだけを言っているのではありません。よく考えなければならないのは、むしろこの度の戦争を対岸の火事のように見ている今の日本という国の現状です。

 あろうことか、この混乱にまみれて核の共有とか軍備を拡大せよと声高に主張する人がいることには驚きます。

 

 この10年ほどの日本の政治はどうだったでしょう。表面的には平和な民主主義国家に見えても、実際の中身は、ロシアほどではないとはいえ、政治の世界でもマスコミを見ても権力への「忖度」ばかりがまかり通るとても風通しの悪い窮屈な状況だと私は見ています。

  データの改竄、情報の隠蔽など、大切なこと本当のことが伝えられないところは、その大小強弱の違いはあっても、情報統制されたロシアと基本は変わりません。

 ロシアの現状を見ながら考えなければならないことは、政治を他人任せにせず、何ごとも自分の問題として諦めずに意見を言い、政治の動きを監視し続けることではないでしょうか。間違いは間違いと言わなければなりません。マスコミが言わないなら、私たち市民が声を上げなければなりません。民主主義国家だから大丈夫なんていう安易な考えは捨てなければなりません。民主主義は誰かが守ってくれるのではありません。国民一人ひとりの意識と行動によって成り立つものです。

 言論の自由を奪われたロシアの人たちを想うと、自由にものを言えないことがどれだけ辛いことかと想像します。たとえその意見が通らなくても、発言できること、そして聴いてもらえることは幸せなことです。この自由を守り通さなければなりません

 またあのガンジーが言った、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。 それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」という言葉を忘れないようにしたいと思います。

 

ウイルスは敵か?

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 もう新型コロナの流行は終わったのかと思うほど、テレビは毎日自民党総裁選の話題で埋め尽くされています。たしか麻生副総理は「曲がりなりにも収束して、国際社会の中で評価が極めて高いと思います」と発言していました。こういう「偉い人」にとってコロナなどというものは何もそれほど大騒ぎをするものではない、仮に感染してもすぐに入院できて、適切な処置によってすぐさま回復できるようになっているのかどうか、私は総理にも財務大臣にもなったことがないのでわかりません。

 ここへきて有効な治療法が次々と開発され、早期に診断し治療すれば重症に陥ることは少なくなっているようですが、検査体制と早期の入院・治療体制が十分とは言えない現状でのこの発言は、同じ日本という国に住む一人として見た場合、現実を捉える感覚があまりにもかけ離れていることに驚愕します。

 実際には未だ収束の見込みが立っていないというのが一般的な見方ではないでしょうか。

 

 新型コロナウイルスが次々と変異を繰り返し感染力を強めていくのを見ていると、ワクチンでウィルスを封じ込めるというやり方、つまり敵を徹底的に叩き潰すようなやり方が本当に正しいのかという気がしてきました。これだけ全世界で爆発的に広がる脅威を治めるにはそれしか方法がなかったのかもしれませんが、このワクチン一辺倒のやり方は、早期発見・早期治療のための検査・医療体制の不備を棚上げし、政策の失敗を覆い隠すための最終兵器の使用に見えます。 今からでも遅くありません。次の第6波に向けて早急に検査・医療体制を立て直して欲しいものです。

 

 そしてもう一つ指摘したいのは、そのやり方は何がなんでも自分たち人間の命を守る(その人間の中でも上級国民と呼ばれる一部の選ばれた人たちだけが優先的に守られる)ことが第一で、他の生物の命は二の次という考えに他ならないところです。

 地球上のどの種も生き延び保存される権利(あるいは法則)があるにも関わらず、命に順序をつけているのは人間だけではないでしょうか。かと言って、80億にまで個体数を増やした人類の一つひとつの命をみすみす諦めることなどできません。

 それならば、せっかくここまで頭脳を発達させ知恵をつけた人類にできることは、自分たちの命も大切にしながら、同時に地球全体の環境保全と個々の命に思いを馳せることではないでしょうか?

 

 ウイルスは人の行動を写す鏡のようなものであるとも言われています。コロナによって変わってしまった日常を生きながらこれからの社会がどうあるべきかを考えると、このパンデミックはこれまでの「当たり前」を疑い、暮らし方を見直す大きなチャンスではないかと思います。

 経済成長・社会の発展のために当たり前のように行われてきた未開の土地や森林を乱開発するような環境破壊が、新たなウイルスを人の社会に持ち込む原因の一つでもあるようです。コロナ以前と同じような社会のシステムの中で、同じような暮らしを続けていると、新たなウイルスが次々人間社会に入り込むだけでなく、地球環境の破壊は止まりません。もう従来の社会システムは限界にきている気がします。

 専門家の見方では、2019年以前の生活に戻るのは難しいといいます。ここは以前の生活にそのまま戻ることを考えるのではなく、地球上の多様な生き物と共存し(実際に我々の体の中には無数のウイルスが棲みついています。つまりウイルスと共棲しているのです)、できるだけ環境を壊さない生活に変えていく時ではないでしょうか。

 

 世界は人間だけに都合の良いようにはできていないのです。人間が自分たちのために勝手に作り上げたシステムが地球というより高次のシステムとバランスが取れなくなった時、それを修復するために様々な形で変化が起こるのだと思います。その一つが今回の新型コロナウイルスによるパンデミックかもしれません。

 そのための一つの解決策として、「脱成長コミュニズム」という思想がじわりじわりと社会に浸透してきているようです。

 その件はまた別の機会に取り上げたいと思います。

 

 

あとがき

 いいえ、別にコロナの肩を持つわけじゃありませんし、ワクチンが絶対ダメということを言いたいのではありません。私とて感染して辛い思いはしたくありません。

 今度の新型コロナウイルスについては専門家でさえ分からないことが多く、様々な考え方があってしかるべきだと思います。そんな中、素人考えではありますが、私の思いを綴らせていただきました。

 本来ウイルスは自然界に古くから存在するもので、その歴史は人類の比ではありません。人類が後からウイルスが存在する世界に出現できたのは、それらに適応する能力を得たからでしょう。

 それならば生得的な免疫機能を存分に発揮できれば、ウイルスとも共存できるはずです。にもかかわらず人間がその自然免疫を過小評価し、ウイルスと戦う姿勢を示すと、ウイルスも自己保存のために本来と違った能力を身につけざるをえない。これは他民族との紛争や、思想・宗教の違いからくる戦争を連想させます。

 つまり人類が保身のために不自然な力(ワクチンや核兵器)を行使することによって、小競り合いで済むものを終わりのない戦争にしてしまうのは、人間の傲慢さの表れではないでしょうか。

 こんなふうに、正解のわからないウイルスとの対峙の仕方を、少し別の角度から考えてみました。皆さんはどう思われますか?

あ・り・が・と

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 今回は時事ネタではなく(思い出すと気分が悪くなることばかりでカラダに良くないので)、祖父(ジジ)馬鹿ネタで一席お付き合いください。

 いま世の中はウソや耳にするのも嫌な言葉、また心に響かない乾ききった上辺だけの美辞麗句で溢れかえっているように思います。なかには誹謗中傷のように、心に響かないどころか人の心を傷つける毒に満ちた言葉も蔓延しています。

 そんな中、幸運にも私は素晴らしい言葉に出会いました。

 それは「ありがと」のひと言でした。

 誰もが毎日何度となく耳にしたり自分の口からも発するごく日常的なありふれた言葉です。

 なぜそんな普段当たり前に使われる言葉が胸を打ったのでしょう?

 結論から言えば、その「ありがと」は心の底から自然に出た、飾りも打算もない率直な感謝の言葉だったからだと思います。

 

 ある日私の仕事場に、一時帰省している3歳になる孫が降りてきたのです。

 さっきから上の階で泣き叫ぶ声が聞こえていたことからすると、きっと遊び飽きて退屈で何か別の刺激を求めていたのでしょう。

 おばあちゃん(妻です)に連れられて私の仕事部屋に入ってきた孫の顔には、満面の笑みがこぼれています。

 特に小さな子どもが喜ぶようなおもちゃや仕掛けは何もないのですが、あまり入れてもらったことのない部屋は珍しいものばかり、子どもにとっては宝の山なのかもしれません。

 さすがにデジタル時代の子どもです。いろんなお宝の中でも、じいちゃんの机に置かれたパソコンには興味津々です。一緒にやるか、と膝の上に乗せてやった時です。

 静かに、それでもはっきりとした声で、とても嬉しそうに「ありがと」と精一杯の喜びの気持ちをこの言葉に乗せて言ったのです。私には間違いなくそう感じました。

 大げさに聞こえるかもしれませんが、60数年生きてきて、こんなに心に響く「ありがと」を聞いたのは初めてです。

 同じ「ありがとう」を聞いてもこれほど感動するのは、言葉を話し始めたばかりの自分の孫だからという理由だけではないと思いました。何かこれまで何十万回と聞いた「ありがとう」とは異質のもので、まるで全く違う言葉に思えたのでした。

 

 孫の「ありがと」のひと言で幸せに浸っていた数日の間に、ある本を開いて偶然にもこんな文章に出会いました。

「ありがとう」と言う日常的な言葉すら、それが心から発せられるとき、魂を揺り動かすほどの力を持つ。

 情愛に満ちた言葉を不意に聞いたとき人は、慰めを感じる以前に、自分が確かに生きていることを自覚し、情愛をもって抱きしめられるとき人は、自分は確かにここにいると感じる。若松英輔著「生きる哲学」)

 

 なんということでしょう。自分が実際に体験した感動を、数日の間に開いた本の中から再発見し、その感動の確かさに深く頷いたのでした。

 また若松英輔さんは次のようにも語っています。

 生きるとは、自分の中にすでにあって、見失っている言葉と出会うための道程だとも言えるのかもしれない。

 

 そうか、自分は心のこもった言葉を見失っていて、それをなんと60歳以上も若い幼い孫から気づかされたということなのだ。そして孫を抱く立場である私は、孫の情愛に満ちた「ありがと」という言葉に逆に抱きしめられたのだ。

 迂闊に自分の口から出る心のこもらない社交辞令的な「ありがとう」や、他者に対する軽率な言葉がけを、大いに反省したのでありました。

 コミュニケーションは言葉だけではありませんが、当たり前、ありふれた言葉の

一つ一つにも心を込めることから信頼関係は生まれるのだと思います。

 

 

涙のわけ

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 年に数回思い切り泣きたいことがある。別にその時点でひどく悲しいことがあったとかいうわけではないのだが、きっと日頃辛くても泣けない時の数滴の涙が積み重なって涙袋が満タンになっていたのだろう。

 そういう時は、感動的な映画を見て、溜まった涙を流したくなるのだ。

 男が人前で涙を見せてはいけない、という法律は多分なかったように思う。

 まして今はコロナ禍で、映画館に行くにもマスクは必須アイテムであるから、泣いていてもそうは目立たない。

 マスクで顔の殆どを覆われているから、目から溢れた涙はたちまちマスクで隠れた頬を流れ落ちるのだ。とても都合がいい。

 いくら泣くことを法律で禁じられてはいないといっても、やはりいいオッサンが人前で泣くのは憚れるのだ。

 

 そんなわけで、これはチャンスとばかり感動的映画のハシゴをした(昨年の話ですが。

 一つは菅田将暉さん主演の「糸」。まあこの手の恋愛もの映画をおっちゃん一人で観るのは、涙を流すこと以上に恥ずかしいことでもあるのだが、この際である。

これも顔がバレにくいマスクのお力を拝借して、意外と堂々と入場できた。

 そして映画が始まるや否や、ものの10分ほどでもう大粒の涙が溢れてきた。

 ここで中島みゆきのあの名曲「糸」が流れたかどうかは忘れてしまったが、ともかくこの歌も大好きで、これを聴くだけでも泣けるのである。

 年とって涙腺が緩んだせいもあるが、何かこの頃、誰かの苦労話を聞いたり、心に響く音楽を聴いたり、温かい親切に触れたりするなど、ちょっと感動的なことがあるとすぐに目頭が熱くなるのだ。

 まあ今日はその溜まった涙の排出のために来たのだからと、照明の落ちた映画館でマスクで顔のほとんどを隠したおっちゃんは、誰に憚ることなく涙くんの好きにさせたのであった。

 

 もう一つは、ウルグアイの元大統領であるホセ・ムヒカさんのことを扱ったもので、「世界で一番貧乏な大統領から、日本人へ」というタイトルの映画だ。

 これは恋愛ものでもなんでもないが、ムヒカさんの生き方と、その体験から生まれた言葉の一つ一つが、ぐっと胸を打つのだ。

 長いこと日本の腐敗した政治を見せつけられてきた身からすると、まだ世界にはこんなに純粋で私利私欲を捨てた熱血漢がいるのだ、と驚くとともに勇気付けられた。

 人々の幸福のために尽力した人を描いたこの映画も、別の見方をすれば「恋」ではないが、「愛」をテーマにしたものと言えるかもしれないない。

 いいおっちゃんが恥ずかしげもなく「愛」などと叫ばせてもらうが、ぼくは「愛」のない人は信用しないことにしているのだ。

 それはどんな分野で生きている人にでもそうであって、言っておくが、政治家も「愛」を感じられない人にはこれまで一票も投じたことはない(でも残念ながら「愛」を感じて一票を投じた候補者はたいてい落選している、とほほ・・・。そのことも涙が溜まる原因かもしれない)。

 

 もう少し涙の原因を深く探ってみてわかったことがある。

 感動の涙や嬉し泣きは、だいたいその時点ですぐに出るが、厄介なのは悔し涙である。嬉し涙は所構わず溢れ出るが、悔し涙は「泣いてたまるか」とつい堪えてしまうのだ。

 腐敗政治と新型コロナに耐えた昨年、映画で大泣きした理由を、これでおわかりでしょうか。