毎朝ほぼ同じ時間に同じ道筋を散歩していると、だいたい見慣れた顔の人たちとすれ違います。ところが、その朝はいつもの散歩道をいつもと同じように歩いていると、見慣れない高齢の女性が顔に笑みを浮かべながらでこちらに向かって歩いてきます。いつか何処かで出会ったことのある人かと思って朝の寝ぼけた脳味噌を一生懸命働かせますが、思い当たりません。
そうこうしているうちにその人との距離はどんどん縮まり、すれ違い様その人は「おはようございます」と笑顔のまま挨拶をしてくれました。やはり知った人ではない。でも向こうから笑顔で挨拶をしてくれるのだからと思ってこちらもにっこり笑って「おはようございます」と応えました。普通はそれだけで、またそれぞれの向かうほうへと歩いていくのでしょうが、その人はこちらの「おはようございます」の言葉の後に、もうひと言なにか声を発して行き過ぎました。
何をおっしゃったのかなあ、と考えながら何歩か歩くうちに気づきました。その人は「ありがとう」と言ったのです。そのことに気づいた途端に、私はとてつもなくうれしい気分になりました。ありがとう自体は毎日幾度となく聞いていますが、なぜかその「ありがとう」は久しぶりに味わう不思議な気持ちです。それは心地好くもあり、その日の自分の気分を大きく変える言葉でした。「ありがとう」という言葉の持つ力の大きさをまざまざと感じました。
その人がどんな気持ちで笑顔とともに「おはよう」の挨拶に続いて「ありがとう」と言ったのかは計り知れませんが、たまたま出会った見知らぬ人へのこちらの儀礼的な挨拶に対して「ありがとう」という言葉を返してくれた人はこれまでいませんでした。おそらく彼女は自分の伝えた「おはよう」の言葉に対してこちらが受け答えしてくれたことがうれしくて、「ありがとう」と言ったのだと思います。穿った見方をすれば、今の世の中はそんな笑顔で挨拶をするという当たり前のコミュニケーションさえもめずらしいくらい、冷ややかな社会になってしまったということかもしれません。
それにしても思いがけない「ありがとう」のひと言を返されたこちらとしては、その日の気分を左右するほどの朝の大きなうれしいプレゼントでした。そして「ありがとう」は日本語の中で一番美しい言葉だと思いながら、思わず心の中で「ありがとう」を返しました。
もう一つ「ありがとう」とともに感じた「心地好さ」の理由は、きっとその人の「笑顔」だったのだと思います。
以前テレビのドキュメンタリー番組で聞いた話ですが、人類はどうやら進化の過程で「笑顔」というものを獲得したらしいのです。野生の動物のような強靭な身体と引き替えに発達した頭脳を手に入れた人類は、その身体の弱さゆえ一人では生き残っていけませんから、食糧を得たり他の動物から身を守るために集団で行動する必要が出てきたわけです。そこで同じ人間同士が敵か味方かを判断する材料として、相手の表情に注目する。もし相手が笑顔を見せれば、「安心」という感情が生まれる。そしてその人を友好的な仲間として迎え入れるということだそうです。
なるほど、無表情の人は何を考えているのか分からないし、険しい顔やしかめっ面をした人にはあまり近寄りたくないですよね。
そういう意味では、笑顔どころか挨拶をしても無視したり無表情で心を開けない人が増えているということは、人類は退化しているのかもしれません。我々はせっかく授けられた「言葉」と「笑顔」という共に生きるための知恵を捨てていったいどこへ行こうとしているのでしょうか? まあ、それは次の進化のためにたまたま今は少し足踏みをしているだけだと思いたいのですが、、、。
良くも悪くも私たちは感情の生き物であると同時に言葉で生きている動物なのです。直に肌で感じる一つの笑顔と一つの言葉が暖かい空気として体全体に伝わり、便利なメールの文字や絵文字では得られない心地好さを実感した朝でした。