風流人日記

医王整体院 院長のblog

虫食いだらけの古新聞

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 この4月から購読新聞を変えました。そうすると急に切り抜きが増えました。これまでも気になる人のことや言葉を見つけると備忘録にメモしたり切り抜いて貼付けたりしていましたが、長く同じ新聞を読み続けていると次第にその数が減っていきました。

 やはり新聞社というのはそれぞれに主義主張があって、それに基づいて記事を編集したり、コメンテーターやコラムニストを選んで紙面を構成するわけですが、それだけに読む側は一紙に固定してしまうと、良い悪いは別にしてどうしても偏った考えに触れ続けることになります。

 今日、新しく読み始めた新聞から切り抜いたのは数理学者ゲーデルの言葉で、「一つの系の中には必ず自己矛盾の要素があり、その系の中にいる限り、その矛盾はわからない」というものです。

 長い間同じ行動を続けていると、思考までもがルーティン化してしまうようです。そのことに気づくためにもこのコラムに書かれているように、ときどき、日常から離れて自分を取り巻く環境を客観的に見ることが大切なのでしょう。その一つとして、購読新聞を変えてみることも簡単で有効な手段かもしれないですね。

 実は新聞を変えた訳は、最近の新聞は読むところがどんどん少なくなっているのを感じたからに他なりません。広告に割かれる紙面のスペースばかりがどんどん広がり、記事自体もなにか画一的で薄っぺらく、もう新聞をとるのはやめようと思っていたくらいです。まあ益々新聞離れが進むこのご時世、広告収入に頼るのは仕方がないと言えばそうなのですが、朝から面白くもない新聞をブツブツ言いながら読んで、月4000円も支払うのがバカらしくなってきたのです。

 ところが、そこまで腹をくくっていいたにもかかわらずやめることができなかった理由は、新聞を読むという行為が朝のお努めにとても役に立っていたからなのです。朝食を終えゆっくりコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、必ず催してくるのです。もうおわかりになりましたか。お通じです。健康的な日々を送るために、私にとって新聞は欠かせないアイテムであったのです。  

 そんなことから、健康のためにも新聞自体をやめるわけにはいかないのなら、読む新聞を変えようと決心しました。変えた新聞がドンピシャ!。面白いのです。読むところがたくさんあるのです。同じ事件を取り上げた記事でも、新聞社によってこれほど書き方が違うのかということをあらためて感じました。 

 まあこれは当たり前のことで  人それぞれ感じ方や考え方が違うのは今さら言うことでもありませんが、読む新聞ひとつとっても、先ほどの「一つの系の中にいることの弊害」をつくづく思いました。上から下から斜めから様々な方向から物事を見る大切さを感じるとともに、それには身の回りの当たり前の日常をちょっと変えてみるだけでもけっこう大きな変化を生むのだと思いました。

 もうひとつ感じたことは、何事もそれに深く関わったり考えなければ「楽」だということです。生きていれば楽しいことや面白いことばかりではありません。嫌なことにもぶち当たり、向き合わなければならないときもあります。それを避けて通ることもできないわけではありません。楽をしようと思えばそんなこと知らなかったことにして、無関心でいることもできます。しかし、しんどくても社会で起こっていることに興味を示し、自分の頭で考え続けることが大切だと思いました。無関心ほど怖い病気はありませんから。

 今の時代、様々なことを知ろうとするにはなにも新聞だけに頼る必要はないのですが、新聞に限ってみて見れば、まさにこの新聞は大手の新聞が書かないような問題でも、できる限りの関心を示し続け、伝えようとしているのがわかります。 

 宣伝に一役買ってしまいそうですが、その名は「東京新聞」です。西日本では販売店がないため届くのは1~2日遅れになりますから「新聞」とは言えないかもしれませんが、それでも読む価値は十分あると思います。

 なお、私が朝一番に興味深く読んであちこち切り抜かれた新聞は虫食い状態で、後で読む家人には大変不評であることを付け加えておきます。 

「治る」とは?

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 「治る」というのはいったいどういうことなのでしょうか? 転んで膝小僧を擦りむいたり足首をひねったりして怪我をしたところは、適切な処置をすればたいていの場合は時間が経てば治ります。ところが、傷口が治っていても、いつまでも長引く痛みや不快な症状が残るケースも少なからずあるようです。特に腰痛などカラダの内部で起こった傷や痛みは、目に見えないだけにやっかいなところがあります。  このブログでも2008年11月に「慢性痛」と題して痛みのことを書いています。そのとき書ききれなかったことや、新しい情報を今回は書きたいと思います。

 治ることと治らないことには、どこにどんな差があるのか。それを考えるために、まず「治る」とはどういうことなのかを考えてみましょう。  痛みや不快症状があって日常生活に支障を来しているうちは、まだ治ったとは言えないでしょう。それがどんどん治癒していくうちに、そのことにあまり意識が向かなくなる。 つまりなにかの拍子にちょっとまだ痛みを感じることはあっても、症状を忘れている時間のほうが長くなっている状態を「治った」というのだと思います。  ところが人によっては、少しでも痛みが残っているうちは、まだ治っていないと考える人もいるでしょう。だからその基準は一概には言えないと思いますが、ここのところの線引きがその後の経過に差が出る気がします。少しでも症状が残っているうちは無理をせず、安静にしてやりたいことも我慢すると考えるか、多少痛みが残っていても気にしないでやるべきことをこなしていくか。これはその人の性格にもよるのでしょうが、前者の場合はどちらかというと痛みが慢性化しやすいと言えそうです。  最近の研究では、慢性痛は脳を含めた中枢神経系に変化をもたらし、本来なら痛みとは感じられないような軽い刺激や、寒さや気圧の変化、また感情が昂ぶったりいやなことを思い出したりというきっかけでも痛みが起きたりすることがわかっています。  このことからも、痛みを感じるたびに強い不安を覚えたり、悲観的に考えたりすることを繰り返していると、脳の痛み系回路に悪影響を与え、治りを遅らせると考えられます。つまり心理的な要因が回復を妨げる大きな一因のひとつであるということです。

 本来、人のからだには痛みを抑制したり調整する能力が備わっているのですが、その神経回路が恐怖感や不安、抑うつ傾向によって歪められるらしいのです。  痛みや不快な症状があるときは、当然気分も落ち込みます。痛みが消えれば気持ちも上向きます。だから、痛みと気分は相互的だと言えます。しかし、いつまでも痛みを気にし、落ち込んだ気分を引きずって絶望的になったり非活動的になっていると、脳にも悪影響を与えるというわけです。ですから、もともとの痛みの原因となるところは治癒していても、いつまでも痛みを引きずる結果になります。  1%でも痛みが残っていればダメという完璧主義者はその点、回復力に差が出やすいかもしれません。多少の痛みがあっても、したいことをし、うまく気分転換ができる人は慢性化しにくいのでしょう。ですから、近年の痛みの研究から言えることは、できるだけ痛みは早期に処置すること。そして、慢性化した場合は、薬や身体的治療だけでなく、カウンセリングや認知行動療法などの心理的アプローチも同時に行っていくことが大切です。

 急性期の痛みは危険を教える大事な情報ですが、慢性期は無意味な痛みが多いようです。不必要な痛みに困らされることになるのです。  その痛みにこだわり、四六時中痛みのことを考えていても、良い結果はでないのです。なにごとも、「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですね。

情報の海をどう渡るか

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 あまりにも次から次へと情報が入ってくると、ひとつのことをじっくり考えている暇がありません。まして慌ただしい世の中、忙しい毎日、物事の裏にあるものにまで踏み込んで思考する時間を持つことなど大変です。こんな情報化社会を私たちはどう生きればいいのでしょうか?

 昔のような新聞やTV/ラジオだけでなく、インターネットの発達で、あらゆる情報をいとも容易く手に入れることができるようになりました。能動的に情報を入手するという意味ではうまく利用すればインターネットはとても価値のあるものと言えますが、テレビなどは頼みもしないのに雑多な情報を押し売りされているという感が否めません。
 そういった意図せず押し掛けてくる情報は無視すればそれで済むのですが、情報を持っているほうが有利であるとか、優れた人間であるかのような風潮があると、 どんな情報も知っておきたくなるものです。また、情報を失ってしまっては社会 から疎外されるような気持になってしまう人も多いようです。

 でも本当にそうでしょうか。知ってしまったばっかりに苦しむということのほ うが多いのではないでしょうか。  ドイツのフォルクスワーゲン社は2011年に労組との間で「メール停止労使 協定」を結んだそうです。夕方の6時15分から朝の7時までは、会社から貸与されているスマートフォンに電子メールが届かないようにしたのです。これは「ストレスを減らすために情報量を制限することがとても有効だ」という判断に基づくもので、よい傾向だと思います。

 人は膨大な情報を入手すると頭が混乱し、つい結論を急ごうとして、そのほとんどを見ないでやり過ごしてしまうのです。その間に実際に自分が体験している目の前のことも目に入らなくなり、大切なことまで見落としてしまう可能性があります。正しいか間違っているか一概には言えないことまで単純化してしまって、早く結論を出して楽になりたいと、そう思ってしまうのです。

 一つの出来事は様々な要素が絡み合って起こります。なにかの問題に遭遇したとき、なんとかいい情報を得て素早く解決したいと思うのは人情です。しかし、世の中が複雑化すればするほど、解決も容易ではありません。なかでも人間関係が絡む問題はとても時間がかかるのものです。  心の病いが増えているのも、この情報の過多が原因していることが多いようです。電子メールやツイッターフェースブックなどのSNSと呼ばれるネット上のコミュニケーションは、手軽であることで却っていろんな憶測、空想を産んでしまいます。ありもしないことを勝手に心配したり、自分の言葉を相手にはき違えられたり。そこからどんどん不安が広がります。現実の顔と顔を突き合わせた対話では、こういった憶測はネット上の空間よりも少なくて済みます。生の情報であるお互いの表情や息づかいを感じられる対話では、伝えたいこともより伝えやすいと言えます。

 便利になるのはいいとして、こうしていつでもどこでも誰かと繋がっていようというネットの社会の中では、生身のつきあいが減り、却って一人ひとりが孤立していく気がしてなりません。  フォルクスワーゲン社のように、組織的に情報量を減らすという環境に居ることができればいいですが、個人でも自ら情報を遮断する勇気が時には必要なのかもしれません。そうしなければ、ますます心をすり減らすことになりかねません。情報化社会においてこそ、時にTVやケータイのスイッチを切り、心静かに自分自身と向き合う時間を持たなければならないのでしょう。  一人ひとりがなにを信じるかは自由ですが、ただ声の大きいもの、みんながそういっているからという理由だけで、自分の目で見、肌で感じ真実をつかむこと ができなくなる事態だけは避けなければなりません。雑多な情報をどう処理する かが問われる世の中ですが、いま一度、自分のカラダに聴くということを提案し たいと思います。道を渡るときに信号だけをあてにせず、自分の目で右も左も見 なければならないように。

小さな買い物と大きな感動

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 先日とても感動的な出来事がありました。聞きようによっては、そんなこと当たり前のことで、取り立てて言うほどのことでないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この殺伐というか暖かい心の交流が失われた社会になれてしまった私にとって、忘れられない思い出となった出来事だったので、皆さんにもお知らせしたいと思った次第です。それほど今の世の中は当たり前のことがめずらしく感じられる狂った時代なのかもしれません。

 さて前置きが長くなりましたが、そろそろ来年の手帳を買いに行こうと出かけたときのお話です。
 昨年、神戸の東急ハンズで買った手帳がとても気に入って、今年も同じものを買おうと思って、今年京都にオープンした東急ハンズに行きました。ところが同じものが見当たらず、仕方なしに他の店を数件訪ねてみましたがどこにもありませんでした。そして辿り着いたのが高島屋です。これまで文房具を買うのにデパートを利用したことはなかったのですが、まあ一応見てみるかと思って立ち寄ったのが吉と出ました。いや、その売り場にも探しているものはなかったのですが、とても親切な店員さんに出会えたのです。
 同じメーカーの柄違いがあったので、それを見せて、これと違う表紙のものがないか尋ねました。するとまあここまではよくあることで、ちょっと親切な人ならいっしょに探してくれたり、バックヤードの在庫を見てくれたりはするのですが、それさえしてくれず、つっけんどんに「ありません」というような対応が多いだけに、その店員さんのその後の対応に驚いたのです。

 売り場の在庫を確認してもらった結果、「あいにくお探しのものは扱っておりませんので、ほかの店にあるかどうか訊いてみましょうか?」と言ってくださいました。私はてっきり大阪かどこか近辺の高島屋に訊いてくれるのかと思ったら、なんと京都の東急ハンズやロフトに電話してみますとおっしゃるのです。まったく自分の会社と関係のない他所の店です。その言葉で、ちょっと大袈裟ですが衝撃が走りました。なんという人だと。それは店の教育なのかその人の個人的な臨機応変な対応なのかはわかりませんが、自分のところの利益しか考えない店や人が多い昨今を思うと、とにかく私はいたく感動したのでした。

 これこそが究極の接客というものではないか。私がよほど困った表情をしていたのかどうかわかりませんが、探しているものが見つからなくて困っている客の身になって、なんとかしてあげようという気持ちが躊躇なく行動に現れるというのは、本当に素晴らしいことだと思いました。これは簡単なようでなかなかできません。ついついその店の通り一遍のマニュアルに添ってしか行動できない人が多いのです。そのことは自分自身にも問いかけました。はたして自分はそこまで親身になって人と接しているだろうかと。

 私たちはつい自分の利益を優先にものを考えます。また、こんなことをしたら上司に叱られるかもしれないなどと、お客さんより自分の立場を大事にしてしまいます。損得勘定がまず働くのです。大切なことは、なにかを頼まれた時に、こうしてあげると相手がなにを思いどう感じるかを、一度我が身に置き換えて考え、再び相手の立場に立って、こうすれば心から喜んでもらえるという行動をすることなのでしょう。
 その店員さんは、きっと日頃からそういう思いでお客さんと接しておられるから、そんなことを理屈抜きにできる人だったのではないかと思います。
 人間なんて単純なものだと思います。煽てられれば図に乗り、褒められれば喜び。でも本当に心に響き、爽やかな気持になれるのは、互いの心が通い合ったときではないでしょうか。たとえばたかが手帳ひとつの買い物でも、そこに心の交流があれば、探しているものが手に入った喜びの数倍もの喜びを生むのです。

 それからもうひとつ思ったことは、最近はネットでなんでも簡単に買い物ができるようになりましたが、ときには時間と手間をかけて買い物に出かけるのも悪くないということです。ただし、いつもこの日のようないい思いができるとは限りませんが、、、。 まあしかし、簡単に手に入るより、苦労して探し出した方が喜びが大きいのは確かです。

 能書きはさておき、その日一日、とても気分が良く、世の中が明るく感じられたのは言うまでもありません。

蛹という不思議な時間

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 前々回「奇跡のアゲハチョウ」の続編になりますが、アゲハ蝶を飼育しているといろいろとおもしろい発見(発見といってもなにも私が初めて見つけたわけではないのですが)があります。なかでも一番の驚きは、驚くほどの勢いで葉を食べたり、うろうろと動き回っていたあのアオムシが、ある時期から急に動き回るのをやめ、蛹になったままじっと閉じこもっている間のことです。アオムシの間は唯一の食糧である葉がなくならないようせっせと運んでやりますが、蛹になればもうわれわれのすることは何もありません。殻の中という目に見えないブラックボックスでなにが起きているのかハラハラしながら、無事に蝶になるのをただ祈るだけです。そして数日後、アオムシとはまったく似ても似つかぬ美しい蝶という姿で中から殻を破って出てきます。完全変態というらしいのですが、その蛹の過程は謎に包まれているそうです。


 河合隼雄さんはこんなことをおっしゃっていました。

 思春期の前というのは子供なりにある程度自分というものができてくる時期なんです。そして、ある程度できたところで、もういっぺん作り直して、大人という変なものにならなくてはいけない。これはアオムシが蝶になるのといっしょじゃないでしょうか。  人間だってこどもがおとなになるというのは大変なんです。ものすごく大変で、その蛹の時代が思春期なのです。そのとき、アオ虫は蛹という殻に囲まれて、一見何にもしないでぶら下がっているようですが、実は蛹の中でものすごい変革が起こって、そして蝶になる。だから私は、人間も思春期にはすごい変革が起こっていると思います。そのときにどの子供たちも人間存在の非常に根源的な魂の部分に触れていると思うのです。  それはどういうことかというと、わけがわからんということです。思春期の子供がものを言わなくなるのは当たり前なんです。あれは隠しているとかなんとかじゃなくて、何を言っていいのかわからないわけです。蛹だったら殻に入って黙っていたらいいんですが、人間は殻に入って黙っていることができない。親は色々話しかけてくるわけですが、関心を持っているレベルと違うものが動いているから、「もうほっといてくれ」と言いたくなる。  魂の底からもういっぺん自分を作り上げるという作業をしますので思春期は大変なのですが、そのときに蛹の殻のように、その子をぐっと守っている力が強いほど、その子はそこを乗り切ることがうまくできる。そしてその蛹の殻は誰かというと、家族であり、地域であり、学校であり社会です。
 河合隼雄「こころの最終講義」より

 大変興味深い話です。私はもし蝶を育てるということをしていなければ、この「蛹」の意味をこんなに深く考えることはなかったでしょう。

 なにかが大きく変わるときというのは、一見なにもないようでも、実は目に見えないところで着々と大変革が進んでいるのですね。いや、大きく動くときこそ、表面的には目立たず、分かりにくく、水面下で進行するのかもしれません。この世の中は、昔からいわれるとおり諸行無常、変わらないものなどないのです。

 われわれはつい自分の価値観や期待値を込めて物事を見てしまいます。たとえば、「うちの子はぜんぜん勉強もしないで遊びほうけている、まったく進歩のない子だ」と嘆くことがあっても、その子の中では遊びを通して着々と大人への進化が進んでいるかもしれないのです。ただ、その進行具合が時として停滞することがあるかと思えば、いつ変わったのかも分からない速さで走り抜けるように変わっていくこともあるのでしょう。

 もう一つ驚いたことは、心や魂のことを古代ギリシャ語でもともと生命のしるしとしての「息」を意味するプシケーという言葉を使うようですが、蝶もまたプシケーと言うそうです。ギリシャでも蝶は命の象徴と見られているようです。

 アゲハチョウの飼育で、命のこと魂のことを考えさせてもらい、そして必要以上に不安を募らせずに信じて待つことの大切さをあらためて感じました。