風流人日記

医王整体院 院長のblog

蛹という不思議な時間

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 前々回「奇跡のアゲハチョウ」の続編になりますが、アゲハ蝶を飼育しているといろいろとおもしろい発見(発見といってもなにも私が初めて見つけたわけではないのですが)があります。なかでも一番の驚きは、驚くほどの勢いで葉を食べたり、うろうろと動き回っていたあのアオムシが、ある時期から急に動き回るのをやめ、蛹になったままじっと閉じこもっている間のことです。アオムシの間は唯一の食糧である葉がなくならないようせっせと運んでやりますが、蛹になればもうわれわれのすることは何もありません。殻の中という目に見えないブラックボックスでなにが起きているのかハラハラしながら、無事に蝶になるのをただ祈るだけです。そして数日後、アオムシとはまったく似ても似つかぬ美しい蝶という姿で中から殻を破って出てきます。完全変態というらしいのですが、その蛹の過程は謎に包まれているそうです。


 河合隼雄さんはこんなことをおっしゃっていました。

 思春期の前というのは子供なりにある程度自分というものができてくる時期なんです。そして、ある程度できたところで、もういっぺん作り直して、大人という変なものにならなくてはいけない。これはアオムシが蝶になるのといっしょじゃないでしょうか。  人間だってこどもがおとなになるというのは大変なんです。ものすごく大変で、その蛹の時代が思春期なのです。そのとき、アオ虫は蛹という殻に囲まれて、一見何にもしないでぶら下がっているようですが、実は蛹の中でものすごい変革が起こって、そして蝶になる。だから私は、人間も思春期にはすごい変革が起こっていると思います。そのときにどの子供たちも人間存在の非常に根源的な魂の部分に触れていると思うのです。  それはどういうことかというと、わけがわからんということです。思春期の子供がものを言わなくなるのは当たり前なんです。あれは隠しているとかなんとかじゃなくて、何を言っていいのかわからないわけです。蛹だったら殻に入って黙っていたらいいんですが、人間は殻に入って黙っていることができない。親は色々話しかけてくるわけですが、関心を持っているレベルと違うものが動いているから、「もうほっといてくれ」と言いたくなる。  魂の底からもういっぺん自分を作り上げるという作業をしますので思春期は大変なのですが、そのときに蛹の殻のように、その子をぐっと守っている力が強いほど、その子はそこを乗り切ることがうまくできる。そしてその蛹の殻は誰かというと、家族であり、地域であり、学校であり社会です。
 河合隼雄「こころの最終講義」より

 大変興味深い話です。私はもし蝶を育てるということをしていなければ、この「蛹」の意味をこんなに深く考えることはなかったでしょう。

 なにかが大きく変わるときというのは、一見なにもないようでも、実は目に見えないところで着々と大変革が進んでいるのですね。いや、大きく動くときこそ、表面的には目立たず、分かりにくく、水面下で進行するのかもしれません。この世の中は、昔からいわれるとおり諸行無常、変わらないものなどないのです。

 われわれはつい自分の価値観や期待値を込めて物事を見てしまいます。たとえば、「うちの子はぜんぜん勉強もしないで遊びほうけている、まったく進歩のない子だ」と嘆くことがあっても、その子の中では遊びを通して着々と大人への進化が進んでいるかもしれないのです。ただ、その進行具合が時として停滞することがあるかと思えば、いつ変わったのかも分からない速さで走り抜けるように変わっていくこともあるのでしょう。

 もう一つ驚いたことは、心や魂のことを古代ギリシャ語でもともと生命のしるしとしての「息」を意味するプシケーという言葉を使うようですが、蝶もまたプシケーと言うそうです。ギリシャでも蝶は命の象徴と見られているようです。

 アゲハチョウの飼育で、命のこと魂のことを考えさせてもらい、そして必要以上に不安を募らせずに信じて待つことの大切さをあらためて感じました。