風流人日記

医王整体院 院長のblog

情報の海をどう渡るか

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 あまりにも次から次へと情報が入ってくると、ひとつのことをじっくり考えている暇がありません。まして慌ただしい世の中、忙しい毎日、物事の裏にあるものにまで踏み込んで思考する時間を持つことなど大変です。こんな情報化社会を私たちはどう生きればいいのでしょうか?

 昔のような新聞やTV/ラジオだけでなく、インターネットの発達で、あらゆる情報をいとも容易く手に入れることができるようになりました。能動的に情報を入手するという意味ではうまく利用すればインターネットはとても価値のあるものと言えますが、テレビなどは頼みもしないのに雑多な情報を押し売りされているという感が否めません。
 そういった意図せず押し掛けてくる情報は無視すればそれで済むのですが、情報を持っているほうが有利であるとか、優れた人間であるかのような風潮があると、 どんな情報も知っておきたくなるものです。また、情報を失ってしまっては社会 から疎外されるような気持になってしまう人も多いようです。

 でも本当にそうでしょうか。知ってしまったばっかりに苦しむということのほ うが多いのではないでしょうか。  ドイツのフォルクスワーゲン社は2011年に労組との間で「メール停止労使 協定」を結んだそうです。夕方の6時15分から朝の7時までは、会社から貸与されているスマートフォンに電子メールが届かないようにしたのです。これは「ストレスを減らすために情報量を制限することがとても有効だ」という判断に基づくもので、よい傾向だと思います。

 人は膨大な情報を入手すると頭が混乱し、つい結論を急ごうとして、そのほとんどを見ないでやり過ごしてしまうのです。その間に実際に自分が体験している目の前のことも目に入らなくなり、大切なことまで見落としてしまう可能性があります。正しいか間違っているか一概には言えないことまで単純化してしまって、早く結論を出して楽になりたいと、そう思ってしまうのです。

 一つの出来事は様々な要素が絡み合って起こります。なにかの問題に遭遇したとき、なんとかいい情報を得て素早く解決したいと思うのは人情です。しかし、世の中が複雑化すればするほど、解決も容易ではありません。なかでも人間関係が絡む問題はとても時間がかかるのものです。  心の病いが増えているのも、この情報の過多が原因していることが多いようです。電子メールやツイッターフェースブックなどのSNSと呼ばれるネット上のコミュニケーションは、手軽であることで却っていろんな憶測、空想を産んでしまいます。ありもしないことを勝手に心配したり、自分の言葉を相手にはき違えられたり。そこからどんどん不安が広がります。現実の顔と顔を突き合わせた対話では、こういった憶測はネット上の空間よりも少なくて済みます。生の情報であるお互いの表情や息づかいを感じられる対話では、伝えたいこともより伝えやすいと言えます。

 便利になるのはいいとして、こうしていつでもどこでも誰かと繋がっていようというネットの社会の中では、生身のつきあいが減り、却って一人ひとりが孤立していく気がしてなりません。  フォルクスワーゲン社のように、組織的に情報量を減らすという環境に居ることができればいいですが、個人でも自ら情報を遮断する勇気が時には必要なのかもしれません。そうしなければ、ますます心をすり減らすことになりかねません。情報化社会においてこそ、時にTVやケータイのスイッチを切り、心静かに自分自身と向き合う時間を持たなければならないのでしょう。  一人ひとりがなにを信じるかは自由ですが、ただ声の大きいもの、みんながそういっているからという理由だけで、自分の目で見、肌で感じ真実をつかむこと ができなくなる事態だけは避けなければなりません。雑多な情報をどう処理する かが問われる世の中ですが、いま一度、自分のカラダに聴くということを提案し たいと思います。道を渡るときに信号だけをあてにせず、自分の目で右も左も見 なければならないように。

小さな買い物と大きな感動

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 先日とても感動的な出来事がありました。聞きようによっては、そんなこと当たり前のことで、取り立てて言うほどのことでないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この殺伐というか暖かい心の交流が失われた社会になれてしまった私にとって、忘れられない思い出となった出来事だったので、皆さんにもお知らせしたいと思った次第です。それほど今の世の中は当たり前のことがめずらしく感じられる狂った時代なのかもしれません。

 さて前置きが長くなりましたが、そろそろ来年の手帳を買いに行こうと出かけたときのお話です。
 昨年、神戸の東急ハンズで買った手帳がとても気に入って、今年も同じものを買おうと思って、今年京都にオープンした東急ハンズに行きました。ところが同じものが見当たらず、仕方なしに他の店を数件訪ねてみましたがどこにもありませんでした。そして辿り着いたのが高島屋です。これまで文房具を買うのにデパートを利用したことはなかったのですが、まあ一応見てみるかと思って立ち寄ったのが吉と出ました。いや、その売り場にも探しているものはなかったのですが、とても親切な店員さんに出会えたのです。
 同じメーカーの柄違いがあったので、それを見せて、これと違う表紙のものがないか尋ねました。するとまあここまではよくあることで、ちょっと親切な人ならいっしょに探してくれたり、バックヤードの在庫を見てくれたりはするのですが、それさえしてくれず、つっけんどんに「ありません」というような対応が多いだけに、その店員さんのその後の対応に驚いたのです。

 売り場の在庫を確認してもらった結果、「あいにくお探しのものは扱っておりませんので、ほかの店にあるかどうか訊いてみましょうか?」と言ってくださいました。私はてっきり大阪かどこか近辺の高島屋に訊いてくれるのかと思ったら、なんと京都の東急ハンズやロフトに電話してみますとおっしゃるのです。まったく自分の会社と関係のない他所の店です。その言葉で、ちょっと大袈裟ですが衝撃が走りました。なんという人だと。それは店の教育なのかその人の個人的な臨機応変な対応なのかはわかりませんが、自分のところの利益しか考えない店や人が多い昨今を思うと、とにかく私はいたく感動したのでした。

 これこそが究極の接客というものではないか。私がよほど困った表情をしていたのかどうかわかりませんが、探しているものが見つからなくて困っている客の身になって、なんとかしてあげようという気持ちが躊躇なく行動に現れるというのは、本当に素晴らしいことだと思いました。これは簡単なようでなかなかできません。ついついその店の通り一遍のマニュアルに添ってしか行動できない人が多いのです。そのことは自分自身にも問いかけました。はたして自分はそこまで親身になって人と接しているだろうかと。

 私たちはつい自分の利益を優先にものを考えます。また、こんなことをしたら上司に叱られるかもしれないなどと、お客さんより自分の立場を大事にしてしまいます。損得勘定がまず働くのです。大切なことは、なにかを頼まれた時に、こうしてあげると相手がなにを思いどう感じるかを、一度我が身に置き換えて考え、再び相手の立場に立って、こうすれば心から喜んでもらえるという行動をすることなのでしょう。
 その店員さんは、きっと日頃からそういう思いでお客さんと接しておられるから、そんなことを理屈抜きにできる人だったのではないかと思います。
 人間なんて単純なものだと思います。煽てられれば図に乗り、褒められれば喜び。でも本当に心に響き、爽やかな気持になれるのは、互いの心が通い合ったときではないでしょうか。たとえばたかが手帳ひとつの買い物でも、そこに心の交流があれば、探しているものが手に入った喜びの数倍もの喜びを生むのです。

 それからもうひとつ思ったことは、最近はネットでなんでも簡単に買い物ができるようになりましたが、ときには時間と手間をかけて買い物に出かけるのも悪くないということです。ただし、いつもこの日のようないい思いができるとは限りませんが、、、。 まあしかし、簡単に手に入るより、苦労して探し出した方が喜びが大きいのは確かです。

 能書きはさておき、その日一日、とても気分が良く、世の中が明るく感じられたのは言うまでもありません。

蛹という不思議な時間

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 前々回「奇跡のアゲハチョウ」の続編になりますが、アゲハ蝶を飼育しているといろいろとおもしろい発見(発見といってもなにも私が初めて見つけたわけではないのですが)があります。なかでも一番の驚きは、驚くほどの勢いで葉を食べたり、うろうろと動き回っていたあのアオムシが、ある時期から急に動き回るのをやめ、蛹になったままじっと閉じこもっている間のことです。アオムシの間は唯一の食糧である葉がなくならないようせっせと運んでやりますが、蛹になればもうわれわれのすることは何もありません。殻の中という目に見えないブラックボックスでなにが起きているのかハラハラしながら、無事に蝶になるのをただ祈るだけです。そして数日後、アオムシとはまったく似ても似つかぬ美しい蝶という姿で中から殻を破って出てきます。完全変態というらしいのですが、その蛹の過程は謎に包まれているそうです。


 河合隼雄さんはこんなことをおっしゃっていました。

 思春期の前というのは子供なりにある程度自分というものができてくる時期なんです。そして、ある程度できたところで、もういっぺん作り直して、大人という変なものにならなくてはいけない。これはアオムシが蝶になるのといっしょじゃないでしょうか。  人間だってこどもがおとなになるというのは大変なんです。ものすごく大変で、その蛹の時代が思春期なのです。そのとき、アオ虫は蛹という殻に囲まれて、一見何にもしないでぶら下がっているようですが、実は蛹の中でものすごい変革が起こって、そして蝶になる。だから私は、人間も思春期にはすごい変革が起こっていると思います。そのときにどの子供たちも人間存在の非常に根源的な魂の部分に触れていると思うのです。  それはどういうことかというと、わけがわからんということです。思春期の子供がものを言わなくなるのは当たり前なんです。あれは隠しているとかなんとかじゃなくて、何を言っていいのかわからないわけです。蛹だったら殻に入って黙っていたらいいんですが、人間は殻に入って黙っていることができない。親は色々話しかけてくるわけですが、関心を持っているレベルと違うものが動いているから、「もうほっといてくれ」と言いたくなる。  魂の底からもういっぺん自分を作り上げるという作業をしますので思春期は大変なのですが、そのときに蛹の殻のように、その子をぐっと守っている力が強いほど、その子はそこを乗り切ることがうまくできる。そしてその蛹の殻は誰かというと、家族であり、地域であり、学校であり社会です。
 河合隼雄「こころの最終講義」より

 大変興味深い話です。私はもし蝶を育てるということをしていなければ、この「蛹」の意味をこんなに深く考えることはなかったでしょう。

 なにかが大きく変わるときというのは、一見なにもないようでも、実は目に見えないところで着々と大変革が進んでいるのですね。いや、大きく動くときこそ、表面的には目立たず、分かりにくく、水面下で進行するのかもしれません。この世の中は、昔からいわれるとおり諸行無常、変わらないものなどないのです。

 われわれはつい自分の価値観や期待値を込めて物事を見てしまいます。たとえば、「うちの子はぜんぜん勉強もしないで遊びほうけている、まったく進歩のない子だ」と嘆くことがあっても、その子の中では遊びを通して着々と大人への進化が進んでいるかもしれないのです。ただ、その進行具合が時として停滞することがあるかと思えば、いつ変わったのかも分からない速さで走り抜けるように変わっていくこともあるのでしょう。

 もう一つ驚いたことは、心や魂のことを古代ギリシャ語でもともと生命のしるしとしての「息」を意味するプシケーという言葉を使うようですが、蝶もまたプシケーと言うそうです。ギリシャでも蝶は命の象徴と見られているようです。

 アゲハチョウの飼育で、命のこと魂のことを考えさせてもらい、そして必要以上に不安を募らせずに信じて待つことの大切さをあらためて感じました。

秋の闖入者

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 朝晩めっきり涼しくなったある日の夜、どこからか時折チッチッチッと虫の鳴き声が聞こえてきました。
 おお秋も深まってきたな、中秋の月といい、なかなか風情があっていいではないかと、ひとり悦に入っていた翌日、ふとしたことで壁にかかっているカレンダーを外すと、突然声の主が現れて驚きました。
 こんな間近で鳴いていたのか。

 庭から紛れ込んだコオロギかなと思いましたが、いや鳴き声からするとコオロギでもないしと調べてみると、どうやら闖入者の名はカネタタキらしい。
 私には鐘を叩く音には聞こえないが、耳にやさしいいい音色です。

 犬がいなくなった我が家は、アゲハ蝶やら秋の虫やら、このところいろんなものが住み始めました。

 チッチッチッ。
 ときどき聞こえるかろやかなライブ演奏に聞き入っていると、しだいに尖った気持が和らいできます。
 究極のリラクゼーション・サウンドです。
 はたしてこの無料の京都公演はいつまで続くことでしょう。

 そのカネタタキの声を聞きたい方はこちらからどうぞ。

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 その後も予期せぬ秋の闖入者カネタタキは部屋に三日ほど居続け、このところの涼しさにほっと一息ついている夏バテのカラダを楽しませてくれました。
 そのとき、ひとつおもしろい発見をしました。
 上にリンクを貼っておいた「カネタタキの声」ですが、生演奏が聞こえてくるときに、それに合わせてそのリンク先のデジタルな音を流してみると、なんと本物が反応するのです。
 たまたまかもしれないが、確かに高い確率で返答します。
 考えてみれば当たり前のことかもしれません。
 虫の声もなにかのメッセージなのですから。
 求愛の声か、そろそろ飯の時間だよ~と言っているのかは知りませんが、ともかく仲間に何かを伝えているのは間違いないでしょう。
 そんな時にコンピュータを使って紛らわしい音を出すのは迷惑かもしれないが、近頃のデジタル技術もたいしたものだと妙に感心してしまいました。

 そんな悪戯をして遊んでいると、カネタタキの鳴き声がコンピュータのスピーカー以外に、あちらこちらいろんな方向から聞こえるようになってきました。
 最初の一匹が部屋の中をうろうろ放浪しているのか、それとも仲間が集まってきたのか。
 いよいよステレオサウンドです。
 どちらにしても、家の中に居ながらにして、間近に秋の虫の音を聴くことができるということは、究極の贅沢です。
 しばらくこの生演奏とデジタル音のステレオ輪唱で風流な秋の夜を楽しませてもらいました。

奇跡のアゲハチョウ

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 夏休みの宿題の観察日記ではありません、今年の春の奇跡のような本当のお話です。

 ここ数年、我が家ではアゲハチョウの卵を保護し、飼育ケースに入れて蝶になるまで育てています。きっかけは2010年の夏に、妻がベランダの鉢植えのグレープフルーツの木に卵が産み落とされているのを発見したことからでした。しばらく様子を見ていると、何日かするとその卵がなくなっているのです。これはきっと鳥かヤモリの餌食になったのだろうと哀れに思い、次に見つけた時に飼育ケースを買ってきて飼い始めたのです。  無事に孵化し幼虫になると、むしゃむしゃ音を立てながらおもしろいほど葉を食べ、どんどん大きくなっていきます。やがて蛹になると、あれほど丸まると太っていたからだが小さくしぼんでしまい、じっと動かない姿を見ていると不安になります。


 無事に羽化することを祈りつつ待つこと約一週間。ある朝起きて飼育ケースをいつものように覗き込むと、中に大きく羽を広げた立派なアゲハチョウがいるではありませんか。まるで我が子の誕生のような感動の対面。喜びと同時に、大げさかもしれませんが、信じ、見守り、待つことの大切さをあらためて思ったものです。
 飼育ケースから出してやるとしばらく家の中で飛行訓練をしたアゲハは、もう自信がついたのか夏の空へ飛び立っていきました。


 それ以来、毎年暖かい季節になるとつぎつぎ卵は産み落とされ、見つけると保護して育てるようになりました。それが昨年は空前のベビーブームで、合計15頭のアゲハを保護し、旅立っていきました。それだけ数が多くなると同時に数匹も飼うことになるので、飼育ケースが一つでは間に合わなくなり、もう一つ大型のを買い足しました。家の増築です。これでなんとか居住空間は確保できたのですが、ところが10頭を越える当たりから毎日の点呼が大変になり、名前を読んでも答えてくれないので、すべての生存を把握しきれないほどになりました。

 そんな中、旅行で三日ほど家を離れなければならなくなりました。もう蛹から蝶に羽化しそうな個体もいたので、カゴの蓋を閉めずに出かけました。それが家に戻ってみると大変。羽化したのはいなかったのですが、多くの幼虫がカゴから脱出して、家の中をうろついているのや、家具の扉で蛹になっているのやら、我が家は蝶屋敷と化していたのです。そんな散り散りバラバラになった幼虫たちに集合をかけ数を数えてみると、一頭足りません。確か16頭いたはずなのですが。、、、結局他の15頭が全部巣立っていってもその16頭目は見つからず、かわいそうながら諦めました。


 それが半年の時を経て奇跡が起きたのです。この春のある朝、散歩から戻り水を飲もうとキッチンに行くと、冷蔵庫の前の床に小さな蝶々が羽を広げて横たわっているのです。窓も開けていないのにどこから入ったんだろうと不思議に思いながら手を伸ばし触ってみるとちゃんと生きています。どうもまだ羽化したばかりで、羽根を乾かしていたようです。あっと頭をよぎったのはあの行方不明になった一頭です。冷蔵庫の底かどこかで越冬したのでしょうか。それにしても、半年蛹の姿でずっとここにいたことを考えると、信じられない思いです。寒い冬を飲まず喰わずで干涸びもせず生き延びたと思うと、感動で胸が熱くなりました。ベランダに放してやると、鉢植えのナデシコの蜜を一生懸命吸っていました。長い冬を乗り越え消耗した体力を取り戻し、飛び立つためのエネルギーを蓄えているようでした。


 思いもよらず、私は自分の浅はかな知識では想像も及ばないほどの生命のドラマを見せてもらいました。自然の力は不思議、命は素晴らしい、そう思わずにはいられませんでした。蝶たちが羽ばたくまでの日々を見ていると、そのひたむきに生き、成長する姿に、あらためて命というものはまさに奇跡の出来事であることを知らされるのでした。

 いつか感動的な羽化の瞬間を見届けたいと思っていますが、それはまだ叶いません。