風流人日記

医王整体院 院長のblog

寛容さが衰退する社会と身体

20140727


 今回は陰ながら私たちの身体を病原菌から守ってくれている「免疫」という縁の下の力持ちに目を向け、そこから社会を見渡してみたいと思います。

 病気にも流行があるというか、時代とともに趨勢が入れ替わります。例えば、一時期よく聞いた胃潰瘍という病気はいまではあまり耳にしません。まあ仮に胃潰瘍になっても、いい薬ができてすぐに治るからという理由もあるでしょうが、代わりに昔はあまり聞かなかった病気をよく耳にするようになりました。関節リウマチ、膠原病といった、いわゆる自己免疫疾患も増えている病気の一つです。免疫はとても複雑なシステムで、まだ解明されていないことが多いのです。
 本来、自分の身体の外から侵入しようとするウィルスや細菌の感染から生体を守る仕組みである免疫システムが、誤作動を起こし自己の組織や臓器に対して免疫反応を起こしてしまうのが自己免疫疾患です。つまり守らなければならない自分の体を、誤って自分で傷つけてしまうのです。
 一般的には、工業用化学物質、重金属、毒物などが多くの自己免疫疾患の発症と関係していることがいわれたり、他にも様々な原因があるのでしょうが、まだ詳しいことはわかっていません。

 これはあくまで私の推測ですが、自己免疫疾患が増える傾向にあるのは、遺伝的因子や上記の環境因子の他に、重苦しい社会の空気や生きにくさとも関係があるのではないかと思うのです。
 実は免疫には「免疫寛容」という現象があり、外部からの侵入者はやっつけても、この「寛容」のお蔭で自分自身の身体は異物と判断せず、攻撃しないようになっています。
 考えの違う他者を頭ごなしに否定し許容範囲が狭まる世の中の傾向、つまり社会全体の「寛容」性が薄れてくれば、当然生きにくくなります。誰にも認められず孤独に陥るなかで、唯一の理解者である自分自身さえもが自分を受け入れられなくなると辛いものですが、自分を責め続けることが自己抗体を作り自分を傷つける身体症状として表れるということがないでしょうか。

 人はなにか失敗をしたり上手くいかないことがあると、つい自信をなくしてしまいます。承認してくれる誰かがいるお蔭で自分自身を肯定できます。たとえまるごとでなくとも、ほんの一部分でも受け入れてくれる人がいなければ、自分は間違っているのではないかと懐疑心が生まれます。そして正しい自分、本来の自分を激しく求めることが、ますます自己否定に繋がり、許せない自分自身を排除しようとする心の葛藤が身体に影響するのではないかと考えるのです。

 また異物に対して必要以上に過剰な反応をして身体に不都合が生じるアレルギー疾患というものも、自己免疫疾患とは別ですが、免疫の異常な反応の一つです。
 これを人の社会的行動に例えると、嫌いな人や自分と意見が違う人に対して必要以上に反応・攻撃してしまう人がいますが、これも「寛容性」の欠如といえるでしょう。

 皆さんも、心が感じたこと頭で考えたことが身体と密接に繋がっているのを実感されることがある思いますが、免疫の働き自体も心の状態に影響されることがわかってきています。その心と身体の間に「寛容」というワンクッションが置かれるかどうかで反応の仕方が大きく変わります。
 生真面目で自分に厳しすぎる人がいる反面、考え方の違う人や失敗をした人を皆がよってたかって笑い者にしたり批難する風潮を見ていると、いまの社会が「自分や特定の人には優しいがそれ以外の人には極端に厳しい」バランスを欠いた免疫異常という病いに陥っているのではないかと思うほどです。
 寛容な心は人に優しいだけでなく、きっと自分の身体にも優しいのだと思います。人によって許容できる範囲は異なると思いますが、善か悪か、敵か味方かという二者択一ではない、ゆとりのあるおおらかな心を取り戻したいものです。
 自分に優しく、人にも優しい人が増えると、世の中ちょっと明るくなるのではないでしょうか。

簡単に助けない ・・・カウンセリングってなに?

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 今回は日頃カウンセリングをしていて感じることを書きます。

 カウンセリングを受けると抱えている悩みに対する答えを教えてくれてすぐに楽になれると思っている方が多いようです。ところが本来のカウンセリングは、その人が抱えている問題から逃げずに自ら考え立ち向かい乗り越えて行く支えになることです。逃げ道を教えたり簡単に楽になる手段をアドバイスするのは、一時的にその人を楽にすることはできても、長い目で見て決して本人のためにはなりません。 

 手取り足取り教えてあげることが親切のようにも見えますが、実はそうしてしまうのは相談を受けるもの自身がしんどさから逃げ、楽になりたいからだと思います。人は目の前で苦しんでいる人を黙って見ていることができないのです。

 ときどき悩むことを悪いことと思っている人がいます。あまり自分を追い詰め過ぎてはいけませんがが、悩むこと自体は決して悪いことではないと思っています。ひとりで悩み、行き詰まったときに、きちんと問題に向き合い深く考え悩める環境、つまり「安心して悩める状態」を作って上げることが本当は大切なのではないでしょうか。

 たしかに誰も好んで悩みたくなどないわけですが、この世に生きている限り悩みがないことなどありえません。悩みながら少しずつでも答えを見いだしていくことが、生きていくうえでの知恵を得、大きな力になっていくんじゃないでしょうか。

 相談を受けた人が自分の体験や教科書的な答えによって、こういう場合はこうすることが一番の方法だと教えてしまうことは、その人から悩むことを奪い、思考を停止させてしまうことにもなります。

 もっとも、最初から唯一の正解などないのですから、教えることすら困難なのですが、、、。

 ただ、いくら考えても悩んでも答えが出ない時に、本当はなにが問題なのかという問題の本質を間違って捉えていないかどうかを吟味する必要があります。そこを間違っては解決するものもしないし、永遠に納得に至りません。

 カウンセラーはそのことを少し高い位置から俯瞰することが大事で、仮に一緒に悩み考えてあげることしかできないとしても、まず本質的な答えに遠ざかる方向から軌道修正してあげることが大事な仕事だといえます。

 人は根底にある問題のテーマに気づかず、目先のことにばかり目を向けていることが多々あります。いま直面している悩みに振り回され、その奥にある根源的な問題を見逃しているのです。だから、簡単に目先の問題を解決してしまうと、一時晴れやかな気持ちになれても、根本的な原因は何も変わらないのですから、同じような状況になると再発する可能性が高いのです。

 これはなにか現代医学と東洋医学の違いに似ているような気がします。いわゆる対症療法と根本療法との違いです。血圧が高いといって薬で下げたり、症状の出ている一部分を見るのではなく、症状の根源を探るわけです。それを辿ってゆくと、ほとんどの場合、食事を始めとした生活習慣やその人のものの考え方に辿り着きます。 

  色々な問題は他所から来たと思っている人が多いのですが、実は本人自身が作り上げていることがほとんどです。同じ出来事が起こっても、それを苦にする人もいれば、大きな問題だと思わない人もいます。つまりその人のものの考え方によっていいも悪いも決まるわけです。問題を作ったのが本人だとすれば、解決できるのも本人です。しかし、本人はなかなかそれに気づかない。そのとき、その手助けをしてあげるのがカウンセラーです。だから、カウンセラーも自らの思考や論理を捨ててその人に出会わなければなりません。自らの論理を押し付けていてはその人自身が自分の思考や論理の歪みに気づけない。自分の考えに導くだけではその人は納得しないし、自分の足で前へ進んで行くことができないのです。答えはその人自身が持っているのです。

 人はときに杖となって支え、ときに行く先に光を照らし、手を差し伸べてくれる人がいれば、自分で乗り越えて行く力を持っているのです。ですから、もがき苦しむ人のために他者ができることは、ひたすら耳を傾け、いっしょに泣き、悩み、苦しむことしかないのではないでしょうか。だから、特別カウンセラーと名の付く人でなくても、それさえ分かっていれば誰にでもできることです。いや、むしろ特別な知識などないほうがいいのかもしれません。心の底から悩んでいる人のことを想い、その人の身になって苦しみながらいっしょに歩んでいくことのできる人ならば、誰でも困っている人の力になれるのです。

 いろいろなケースを見ていても、そんな安定した支えがあれば、そのうち目の前の悩みばかりにとらわれていないで、別のことに興味の対象が移っていくことがよくあります。

 その時点でもう受けとめ方が変わっているのです。その人の前に立ちはだかっていたかにみえる大きな壁は、自然に消えていたり、あるいはちょっと苦い良薬だったと思えるようになるのでしょう。 

見方を変える ーー4月という節目に

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 4月は様々なことが動き出す変化の月ですが、ここ数年私にとって4月は鬼門の月になってしまいました。まだこのブログには書いていませんでしたが、2年前の3月31日に14年連れ添った愛犬との別れがありました。それまで4月は桜も咲いて心が弾む季節だったのが、一転憂鬱な時節になってしまったのです。

 お正月は新しい年の初めですが、実質的には4月が新学期や新年度が始まる変化の時期です。この時期は誰もが希望とともに不安で心が不安定なことが多いのですが、そんな時に桜という木は華やかに美しい花を咲かせ、人々の心をしばし酔わせてくれます。でもその酔い心地は人によってそれぞれ違うものでしょう。

 私自身もかつては桜が咲くとカメラを抱えて西へ東へと夢中で追いかけ、ファインダー越しに鮮やかな桜を見つめてはうっとり心地よく酔わせてもらいました。ところが、愛するものとの離別などがあると花見をする気にもなりませんし、花を見ても悲しさが込み上げるばかりです。

 ことほど左様に、人はいくら美しいものを目の前にしても、別のことに気持ちが行っていたり心が曇っていたりすると、それが眼にも入らないこともあります。

 桜は必ずしも美しいとは限らないのです。その時の心境によって、悲しみを覚えたり切なさを感じたりすることもあります。でもいつまでも悲しみを言い訳にしていても始まりません。この4月という変化の時期には考え方も変えようと決心しました。

 ひとつの物事にはいい面があれば悪い面もあります。どちらかが100%ということはまずありません。しかし、人はその時々の気分でそれを一方向からしか見ることができない場合もあります。   

 上の太極図というものをご存知でしょうか。これは古代中国の宇宙観で、万物は陰と陽の二つの気から成り立つという考えを図式化したものです。陰と陽を表す黒い部分と白い部分が渦巻くように描かれています。この陰と陽が絡み合ってエネルギーが生まれ、あらゆるものが作り出されるという見方です。ですからすべての物事には陰と陽の側面があるというわけです。面白いのは黒い陰の中に白い○(陽)があり、白い陽の中に黒い●(陰)があります。これは陰中の陽、陽中の陰といって、陰でも陽でもそれが全てではない、陰の中にも陽が潜んでいて、陽ばかりと思っていてもそこには必ず陰の要素も含まれるということです。

  どんなに辛く苦しいときでも、その一年24時間苦しみっぱなしということはないと思います。辛い時に食事が美味しいとはあまりまり思えないかもしれませんが、大好物のものを食べると少なくともその時は喜びを感じたり、温泉に浸かってああ気持ちいいと思うかもしれません。ただそう感じても、あたかもそんな良い出来事はなかったことにしてしまうのが苦しいときの特徴です。なにもかも全てがダメ!と思ってしまうのです。これは考え方のクセみたいなもので、そう思いやすい傾向の人とそうでない人がいます。クセとは恐ろしいもので、悪いほうに考えないようにしようといくら頑張ってもついクセが出てしまいます。

 だから悪いように思うのは自分の思考のクセで、捉え方によってはけっして100%悪いということではないことに気づけば、辛い中にも一条の光が見えるのではないでしょうか。

 この変化の4月はなにかと慌ただしいかもしれませんが、自分の考え方のクセに気づき、ちょっとモノの見方を変えて、堂々巡りの考えから抜け出すチャンスかもしれません。

 一方向(自分の考え方のクセ)からだけの見方ではなく、ちょっと横や裏側から眺めてみたり、あるいは好きなあの人ならこんなときどうするだろと視点を変えてみることが大切ではないでしょうか。見方を変えるだけで世界が変わることもあります。

痛み3倍説

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 痛みというものは他人にはなかなかわかりません。痛みは計測できないですし、一人ひとり固有の体験だからです。他人の痛みの程度は、苦しんでいる表情で判断したり、その人の声や様子で想像するしかありません。しかし、それすら人によって我慢強い人もいればちょっとオーバーに表現する人もいますから、客観的な判断は難しいわけです。

 面白いことに、痛みが治まって元気になればみんなその時の痛みを自慢げに話します。「ああ、あんなに痛いことはなかった。君にはわからないだろうけど」と、やはり自分の痛みが世界で一番なのです。

 他人と痛み比べをしていても仕方ありませんから、ここでは自分自身の痛みについて考えてみましょう。

 私たちは実際の痛みの3倍の痛みを感じているという考え方があります。

 それはどういうことかというと、実際の痛みを10とすると、それにこれまで体験してきた過去の痛みを10、それからいつ治まるかもわからないこの先の痛みを10、合計30の痛みを感じているというのです。つまり私たちは、過ぎ去った今日までの痛みと、まだ感じてもいない未来の痛みまで足してしまって、実際より大きな痛みを作り上げているというわけです。いま実際に感じている痛みだけなら10で済むところを、辛い過去と先々への心配で3倍にふくらませてしまっているのです。

 そんなバカな!私の痛みは本当に30、いや100でも足りないほど大変なんだ!とおっしゃるかもしれません。でもよく考えてみてください。今の痛みが今夜一晩寝て明日の朝にはもうすっかり消えていることがはっきりしていれば不安など感じないでしょうが、いつまで続くかという心配がきっと痛みを増幅させているのだと思います。

 誰にも明日起きることはわかりませんが、経験豊富なお医者さんの「大丈夫ですよ。きっと明日には痛みは取れていますから」という言葉を信じてみてはいかがでしょう。そうすれば少なくとも明日も痛いであろうという“予定の痛み”の分の10は痛みが減ります。かりに翌日になっても痛みが取れていなかったとしても、また次の日の心配をすることなく「いま・ここ」に居続けるかぎりは、先回りして余計な痛みまで背負い込まなくてもいいわけです。

 考えようによってどうにでもなる未来の痛みより、過去の痛みのほうが取り除くのが難しいかもしれません。実際に体験した痛みですからね。間違いなくあった事実、でっち上げなんかではありません。

 でもそれもいま実際にここにあるわけではありません。過去の痛みはいまはもうここには存在しないのです。思い起こして何度も痛みを再現したりしないで、過去に置き去りにしておきましょう。

 それが「いま・ここ」を生きるということです。

 どんなに辛く苦しいことがあるときでも、おいしい料理を食べているときは少なくとも一瞬でもその苦しみを忘れています。せっかくのおいしい料理も、辛いことばかり考えながら食べていると、味気ないものになってしまいますよね。

 人間は想像力旺盛な高度な知能を持った生き物です。しかし、それだけにまた悩み多き生き物でもあります。でも実際には一度にたくさんのことを考えられないし、同時にいろんなことを感じることもできません。「いま・ここ」でするべきことに集中することによって、多くの想像上の痛みや苦しみからは解放されます。

 痛みは身体の状態を知らせる大事なサインです。かと言って辛い痛みを自分で必要以上膨らませて感じなくてもいいはずです。

 悩むときは悩む、忘れるときは忘れる。そんなことができれば、私たちの一日はもう少し楽になるのではないでしょうか。

年末、記憶の大掃除と言葉の整理

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 今年も残すところ数日となりました。時間は誰にも平等に一日24時間、そしてそれが365日与えられています。それでも楽しい時間は早く過ぎ、辛く苦しいときは永遠に続くような気がします。みなさんのこの一年は早く過ぎたでしょうか、それとも長かったでしょうか?

 私はお蔭さまでこの一年、大過なく過ごすことができたと感じています。それでも詳細に振り返ってみると、苦しかったこと、驚いたこと、悲しみで涙があふれたこと、大失敗をしてしまったなど、さまざまな出来事がありました。

 それぞれの出来事によって、ふと立ち止まり、多くのことを考えさせられました。その都度、喜怒哀楽の感情をなんらかの形で表現しますが、それっきりで終わりにすることができないこともあります。

 最終的にはその想いを自分の中に収まりやすい形に変え、いつもすぐに引き出せる場所に置いたり、深い心の奥にしまったりします。収める形が悪かったり置き場を間違えると、その記憶も居心地が悪いのでしょうか、常になんらかの形でアピールしてきます。いわゆる「引きずる」というやつで、なにかそのことが引っかかって気持ちの悪いものです。カラダにも影響が出ることもあります。

 それはそれ、もう過去のことだときれいさっぱり忘れてしまうことができればいいのですが、それでもそんなに簡単にいかないこともたくさんあります。

 どうしても処理しきれないときは、私はその時点では白黒はっきりさせず、「保留」というかたちでちょっとお預けにします。そうすると、日々の忙しさで忘れていたり、突然そのことが浮上してきたりすることもあります。しかしその都度まあいいか、しょうがないと思っていると、次第に角が取れ、丸みを帯びて柔らかな形に変わっていくのを感じます。

 おそらく長いこと生きているとあまりにも思い出が多くなってしまって、軽く小さく収めていかないと収納できなくなってしまうのでしょう。記憶というものは常に形を変化させるものだと思います。

 今年一年のさまざまな出来事の中で、それに当たる、簡単に処理できなかった出来事を挙げてみます。

 このところなにかが足りない日々だと思ったら、半沢直樹が終わったり、天野祐吉さんが亡くなられて新聞のコラムが読めなくなったり、毎週楽しみにしていたことが次々となくなってしまったのです。やはり何かが終わったり失ったりすることはショックが大きいものです。コラムニストの天野祐吉さんは「CM天気図」の中でいろんなことを教えてくれました。

 著名人だけでなく身近な大切な人との別れもありましました。亡くなられたら、もうその人の口から新しい言葉は聞けないかもしれません。でも、生前語られた貴重な言葉やその生き方は、これからもずっと私の心の中で生き続けると思います。

 大切な人を亡くしたり別れることはなにも辛い思い出ばかりではないのです。その人の勇気を与え立ち直らせてくれる力強く温かい言葉が、自分の中のネガティブな感情を打ち消す希望へのエネルギーとして、いつもでも命の炎を点し続けてくれます。聖火リレーじゃないですが、そうして命の炎は人から人へ、世代を超えて引き継がれていくのだと思います。

そのほかにも、亡くなられた漫画家やなせたかしさんの言葉が強く心に残りました。「一寸先は光」。この希望に満ちた言葉を胸に、来年も苦楽さまざまな出来後の中に、たとえ微かであっても明るい暖かい光を見つけていきたいと思っています。

 皆様も大掃除の中から自分にしっくりくるいい言葉を見つけて、どうぞ佳いお年をお迎えください。

 今年一年、ありがとうございました。