苦楽の分かれ道
ケガや病気などをきっかけとして、これまで普通にやっていたことができなくなる、ということはよく起こります。
すぐに快復して、また元通りの生活に戻れたらいいのですが、そんな状態が少し長引くと、とても落胆するものです。
「いままでできた何でもないことができないなんて、ああ情けない」
「私はもう、このままこんな状態で一生をすごすのか?」
「ほんとに私はダメな人間だ」
そう考える人は多いと思います。
しかしこれは物事の一面しか見ていないのではないでしょうか。悩み苦しんでいる時というのは、どうしても悪い方にしか目が向かないものです。
たしかに出来なくなったことがあるのは事実でしょう。しかし、なにもかもできないというわけではなく、実際には出来ていることもあるだろうし、またそこには、出来なくなったがために良くなったことが見落とされていることもあります。
たとえば、なにかが出来なくなったために、新たなその分の時間というものが生まれます。その新しく得た時間に、新しいことや、これまでやりたくても時間がなくて出来なかったことが出来るかもしれません。
あるいは、これまで自分はどんなことも進んでやってきたというが、ほんとに自分自身のためにやってきたのか?義理やおつきあいで、ほんとはしたくないことでも無理矢理してきたのではないか?そんな見方を忘れているのではないでしょうか。
もちろん世の中はギブアンドテイクですから、自分だけのためという「わがまま」だけで生きていけるものではありませんが、仮にアクシデントがなければ、本当の自分の生き甲斐ややりがいのための時間を犠牲にして、そのままズルズルとイヤイヤながらことを続けていなかったでしょうか?
アクシデントに遭遇すると、どんな人も冷静さを欠いてしまいます。これまで続けてきた「当たり前の日常」が崩れると、戸惑います。
だから、そんなところにまで考えが及ばないことが多いのですが、本当に自分が苦しんでいる時というのは、自分の中の懸案事項である何かが、その活路を見出そうとして戦っている時であり、なにか新しいことが始まる前の「産みの苦しみ」の時なのではないでしょうか。
苦しみの中で、そこのところに気づくかどうかで、苦しみが続くか道が開けるかが別れるような気がします。
それでも、そんなことをいくら言われても、本当に自分が生き甲斐としていたことができなくなってしまったときにはどうすればいいんだ、とおっしゃるかもしれません。実際、それほどの大きなショックはないかもしれません。
でも、そんな時でさえ、人間はその状況の中で、新たな生き甲斐や喜びを見出すことが出来る素晴らしい力を持っていると信じたいのです。
苦しみの渦中にこんなことを言っても、なかなか理解してもらえないことが多いのですが、苦しみを乗り越えた後に振り返ってみると、アクシデントにはこんな大きな意味があることが分かります。
あのことがなかったら今の自分じゃないかもしれない。
本当に人生というものは面白いものだなあと。
何か新しいことが始まる時や、成長するためには、苦しみがエネルギーになるんだなあと。
悩みは自分を見つめ直す大切な時間なんだと。