風流人日記

医王整体院 院長のblog

〇〇貯金

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 500円玉貯金とかがちょっとしたブームだそうで、私も今さらながら貯金を始めました。政府に老後のために2000万円貯めろと言われたからではありません。貯めるのはお金でもストレスでもありません。
 「許す」という行為です。最近、人間力というものはどれだけ人を許せるかで決まるのではないかと思い始めたのです。まあ今さら私が言わなくても昔から人格的に優れた人はそういう器の大きい人だったのでしょうが。
 生きていく上で困難なことは山ほどありますが、この「許す」ということほど難しいことはないという気がするのです。これができれば人として一歩、いや二十歩くらい成長できるんじゃないかと思ったのです。
 余談ですが、この「ゆるす」という字をどの漢字で書こうかと辞書を引いて、おもしろい発見をしました。だいたい「許す」と書く人が多いかと思いますが、その他に「赦す」という字もよく見かけます。驚いたのは「聴す」という書き方があったのです。このブログにも何度か「聴く」ということをテーマに書きましたし、私が大切にしている「よく聴く(傾聴)」「観察する」という意味の「聴く」です。
 その「聴く」には「ゆるす」という意味まで含まれるのだ。思い込みをなくしひたすら聴くという行為そのものが、すでに相手を受け入れ許していることになるんだ。ちょっと大袈裟ではありますが思わず「おおっ」と声を上げてしまいました。

 話を元に戻しますが、ある時、この「許す」行為をやってみたのです。これまで数え切れないほど腹の立つ許しがたいことをする人がいて、案の定その日も許せない!と叫びたいことがいくつもあってハラワタが煮えくり返っていたのですが、なぜかその日は相手を責めず、誰にも愚痴をこぼさず、怒りと許せない気持ちをそっとしておいたのです。もういくら言っても仕方ないと諦めの境地だったのかもしれません。
 そして翌朝。目が醒めると、不思議なことにそのことが記憶としては残っているのですが、それほど気にならない。それどころかとても爽やかな気分を味わったのです。「許す」というのはこういうことか、なかなかええやん、と思ったわけです。
 忘れるということを待たず(もともと嫌なことは忘れようと思ってもなかなか忘れられないものですが)、積極的に許した方が気持ちの回復が早いことに気づきました。
 こんなに気持ちのいいことならちょっと続けてみるかという気になり、これを積み重ねていけばあわよくば「いい人」になれるのではないか、なんて調子のいいことも考えました。
 そこまではまあいいのですが、またまた欲が出て、この貯金を増やせば、自分が相手に迷惑をかけて怒らせたり困らせたりした時に、これで精算して許してもらえるのではないか、などと虫のいい妄想が始まります。
 でもそれでいいじゃありませんか。なるべく誰かに許してもらうという借金を作らず、こちらの「許した」残高を多くしておくと幸せな気分になれるなら。

 でも貯まり具合は他人任せです。何しろ誰かに腹がたつようなことをしてもらわないことには「許す貯金」のしようがない。だからいい人ばかりと付き合っていると全然貯まらないのです。積極的にあまり気の合わない人とも関わらなければなりません。でも世の中はうまいことできてます。そんないい人ばかりではありません。私を怒らせ貯金をさせてくれる人は、いつでもどこにでもちゃんといます。
 もしそれでも貯まらない時は自分を許すことにします。自分に腹がたつことは、他人に腹を立てさせられることに匹敵するほどたくさんありますから。

 そんなわけで、今年は「許す貯金」を貯めながら、飄々と柳で暮らすことにします。
 気に入らぬ風もあろうに柳かな。

分解と再構成

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 前回は「何かを一つやめると全体が変わる」ということを書きました。それが私の場合は「朝テレビをつけない」という簡単なことだったのですが、これは別にテレビだけでなくていろんなことに応用できる気がして、もう少し別の角度から書いてみたいと思います。

 まずその「一つやめると全体が変わる」ということのメカニズムについて考えてみます。
 よし!この際、気分一新全館リニューアルだ!などと大上段に構えなくても、何か例え一つの小さなことでもそれをやめることによって、全体が大きく変わることもあります。
 分子生物学福岡伸一さんが提唱する「動的平衡」という考え方があります。これは生物(生命体)は常に分子の分解と再構成を繰り返しながら秩序を保っている、という概念です。逆に言えば、固定して動かない、変化のない状態では生きていけないということです。
 私たちを取り囲む環境も変わり続けているのですから、人間もその変化に対応するには、壊しながら作り続ける状態を維持してバランスと秩序を保っているのです。
 これはまさに気功と同じ考え方です。川の流れと同じように気は本来、常に流れ動き続けているのです。流れが滞ると川が淀むように、気の流れの滞りこそが病気の原因だと考えられています。

 ところが人には欲があります。有名な理論として「マズローの欲求五段階説」というものがありますが、人間は生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→承認欲求→自己実現欲求というように、一つの欲求が満たされると次の欲求を満たそうとする心理的な行動を表しています。
 詳しい解説はここでは省きますが、これを見ても人間の欲求はどこまでもキリがないように思えますが、最終的には自己実現を目指して成長していくのが人間だという考え方です。
 何を持って自己実現を達成したかは人それぞれだとは思いますが、成長していくためには一定の欲は必要なものかもしれません。
 しかしそれも行き過ぎると良い成長ができなくなります。例えば生理的欲求の一つである食欲をとっても、生命活動を維持するための必要最低限に止めておけばいいところを、ついもっとたくさん、もっと美味しいものをとなってしまうと、成長どころか体を壊してしまいます。足るを知らないと、欲は際限なく膨れ上がります。
 ガンディーも「獄中からの手紙」の中で、「世界に広がる悲惨な貧困も必要以上の所有に因るといえる。必要以上のものを所有するのは盗みである」と書いています。

 いま地球規模で問題になっているCO2の問題をとっても、先の福岡伸一さんは「CO2自体は外でも毒でもない。人間活動が作りすぎたCO2を他の生物や植物が吸収しきれない”滞り”が問題なのです」と言っています。この流れを滞らせているのが、人間の膨らみすぎた欲望・執着心なのかもしれません。
 仏教では執着が強いほど苦悩が深くなるといいます。

「朝テレビをつけない」から話がずいぶん遠いところに来てしまいました。ブレない確固とした信念も大切なのでしょうが、それは根っこの問題で、柳のように吹く風を柔らかく受け止め、逆らわずしなやかに枝を揺らす柔軟さと、必要以上のものを手放す勇気が必要なのでしょう。
「何かをやめる」は抱え込んでいた「何かを捨てる」ことでもあり、それによって常に新しい自分を保っていられるのかもしれません。

 

変わるには何かをやめてみる

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 多忙につきしばらくお休みをいただいていました。と言っても、脳が機能停止に陥ったわけではなく、日々様々な考えが頭をよぎってはいました(なんの言分けにもなりませんが)。 
 むしろそれがなかなか文字にできない状況を作っていたのかもしれません。書きたいことは山ほどあるのですが、考えることがありすぎてまとまりのつかないことになっていたのだと思います(やっぱり言分けだ)。
 何れにしてもそれはあまり良い状態とは言えないかもしれません。
 先日いつも聴いている「健康川柳道場・しあわせの575」というラジオの番組で、師範が「多忙は体に悪い。脳を働かすのは50分が限度。疲労は脳からくるから上手に脳を休ませないといけない。」というようなことを話していました。そうしないといい川柳も生まれないようです。

 多忙な中でも久しぶりにこうして考えをまとめることができるようになったのは、実は「朝テレビをつけない」という習慣がしばらく続いたからだと思います。
 それまでも、できるだけ朝はバタバタしたくないので早起きして仕事にかかるまでの時間をゆったりとるようにしていました。それはまだほとんどの人が活動を始める前から起きて、静かなうちに脳内も含めて身の回りのいろんなことを整理する時間でした。
 でもそうは言うものの、結構朝の時間も瞬く間に過ぎていき、時間がなくなると朝ごはんを食べながらテレビを見て新聞を読むという荒技をこなすことも多かったのです。
 それがその一つのテレビをやめただけで、見違えるほどの余裕を感じられるようになったのです。それはそうですよね。なにしろテレビは画面を見なくてはいけないわ、音声も聞かなくてはいけないわ、ツッコミを入れるボヤく、CMが入ると今度は新聞に目をやるなどと、こうして書き出してみるだけでも大変なたくさんのことをしながら、口に入れたパンをコーヒーで流し込むなんてことをしていたのですから。単細胞頭の私には無謀とも言える難易度の高いことだったのです。

 そんなこれまで習慣化してしまって気づかなかった簡単なことを教えてくれたのは、「怒らない禅の作法」(枡野俊明著)とういう本です。怒りのコントロールを勉強しようと手にした本でしたが、意外なところで生活を好循環に導いてくれました。考えてみると、そもそもなぜイライラしたり怒りを感じたりするのかというと、やはり心に余裕がないからなのでしょうね。何があっても少し間を置くことができたり、相手の立場を考えて許すことができるのは、気持ちに余裕がなければできません。いつもイッパイイッパイの状態は、例えて言えば爆発寸前のパンパンに膨れた風船のようなものです。一触即発とはこのことです。
 朝テレビをつけないという習慣は、風船に余裕を持たせるための効果は大でした。必要な情報は新聞の中から自分で探せばいいのです。

 だれもが社会生活をしている限りは、日々様々な困難に遭遇します。そしてすぐには解決しないたくさんの問題や課題を抱えながら生きていかなければなりません。そんな状況でテレビをつけシャワーのように降り注ぐ余分な情報まで背負ってしまっては、身動きが取れなくなってしまいます。私の場合、テレビを消すだけでも本当に向き合わなければならない大切な問題が浮き彫りになり、それについて考える時間の余裕が生まれました。
 そうはいっても最後には解決できない問題を中腰のまま抱えていられる力も必要ですが、そんな風に自分で選び抜いた問題は、そうでないことに比べて持ちこたえられるものだということもわかりました。
 そして何より、ちょっと怒りの回数も減った気がします。枡野先生ありがとうございました。

無いものねだり

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 近所の田んぼから蛙の歌が聞こえる季節になった。今の住居に越してきた頃はまだまわりのあちこちに田んぼや畑があって、毎朝散歩していると季節ごとの色や匂いや音を楽しむことができた。年々それは宅地に変わり、もう季節を感じるのは空を見上げた時と、肌に感じる風と温度や湿度くらいになってしまった。

 そんなふうに未練がましく昔を懐かしむようなことを言うが、当時は田植えの時期、街が寝静まった頃に窓を開けていると、競いあうように大きな声で啼く蛙の声がうるさいとも感じたものだ。

 それがいまでは、わずかに残された田んぼから聞こえる初夏の音色が耳に心地よく感じる。まったく人間はわがままなものだ。

 自分たちでどんどん征服しておいて後になって失った自然を懐かしむ人間どものわがままなどお構いなく、人間以外の生き物たちは残された自然環境を一生懸命たくましく生きているようだ。

 

 一昨年の春、我が家の軒下にツバメが巣作りをしに通っていた。いつ巣が完成するかと楽しみに見守っていたのだけれど、なかなか作業は進まない。近頃の建材は汚れがつきにくい加工が施されているようで、ツバメがせっせと運んでくる藁や小さな枝が壁にうまくくっつかなくて、すぐに崩れ落ちるようだ。いまいましいカラスの威嚇もあって、懸命の努力も甲斐なく数日で諦めたようで、巣は作りかけのままツバメは姿を見せなくなった。

 ツバメは幸せを運ぶというから期待していたがとても残念な思いをしたので、次の年、今度こそはと、巣作りがしやすいよう台座を作ってみた。しかし、ツバメはその年も巣作りをすることはなかった。いくら人間が人工的な工作をしても、自然はそんなことはお構いなしにあくまでも自然に機能するんだと思った。

 

 でも考えてみるとこれから日本の都市に産まれてくる子どもたちの多くは、舗装された道路、隙間なく建つ家やビルに囲まれ、土も畑も田んぼも見ずに育つことになる。

 辛い出来事や、このところの腐敗した政治を見ていると心が萎えてしまいそうになるのだが、そんな時でも、自然に接することでわずかでも息を吹き返すことができるのだけれど、これからの子どもたちは何を喜びとして暮らしていくだろうかとつい余計な心配をしてしまう。

 ゲームやスマホがあればそれで事足りるのだろうか。ヴァーチャルな映像で自然でも何でも見ることができれば、それが仮想だとわかっていても手軽に体験できればそれでいい。本物を見ることが難しくなった時には、そう思うことで納得するしかないのだろうか。

 でも、仮想体験で感動したものは、きっと実物をこの目で見たいと思うはずだが、、、。

 

 政治に正義を求めることも、無くした自然を取り戻したいと思うことも、無いものねだりなのだろうか。

 

 そんなことをぼんやり考えている時、かつてブラジルで行われた環境サミットでの12歳のカナダの少女のスピーチを思い出した。

オゾン層にあいた穴をどうふさぐのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどう生き返させるのか、あなたは知らないでしょう。どう直すか分からないものを壊し続けるのはやめてください」。

 われわれ大人の感覚はすでに麻痺しているのか、いや気づかないふりをしているだけかもしれない。

 

 

 次々と凄惨な事件や事故が起き、頭が混乱して考えがまとまらないうちに、もう今年も半分が過ぎようとしています。

 その間に元号も平成から令和に変わり(うちのパソコンはまだちゃんと令和と変換しませんが)、何やら追い立てられるような日々です。

 そんな中、今回はちょっと立ち止まって足元の自然のことを考えてみました。

紅白歌合戦に思う現代社会

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 新年あけましておめでとうございます。

 今年もお正月からぼやいております。突然切れる老人が増えていると聞きますが、ぼやいているくらいならまだ可愛いもんだ、と大目に見てやってください。

 そんなことで、今年も人のカラダと世の中を注意深く観察しながら、気づいたことを少しづつ書いていきたいと思っております。

 今年も変わらずよろしくおつき合いください。

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 正月はなぜか昔の思い出がよみがえることが多いのですが、みなさんも子供の頃の家族で過ごしたお正月を思い出したりしませんか。

 大晦日といえば何と言っても紅白歌合戦でしょう。これを見なければ新しい年が来ないというくらい重要な行事の一つでした。でもいつからでしょう、別に紅白見なくてもいいや、となったのは。

 歌の世界も当然世代交代があります。自分が歳をとるということは、同世代の贔屓の歌手も同じように歳をとり、引退したり亡くなったりすることもあります。そして次の世代の若い歌い手にバトンタッチされ、それによって新鮮さを感じるからこそ、マンネリ化せず毎年見ていたのだと思います。

 ところが、見なくても別にいい、あるいは見たいと思わなくなったのは、その新鮮なはずの若い世代の歌手たちの歌に感動しなくなったからです。別に若い歌手の人たちは考えの古いおじさんになど共感してもらわなくてもいいと思っているのかもしれませんが、ちょっと前までは年配者でも感動する若者の歌があったと思うのです。それだけオマエの感性が鈍ったのだと言われれば仕方ありませんが、いい歌いい曲というのは年齢に関係なく人を惹きつけるものだと思います。

 今は歌に限らず、なんでもターゲットを絞り込んで売り込む時代かもしれませんが、仮にそうならば、歌を売れるように作り込んでいるということになります。それはそれでいいのですが、私が音楽に求めるのは、やはりどれだけ心に響くかということです。そしてそれは作り手がこうすれば売れるという細工や計算づくではなく、自然発生的に生まれたものではないかと思うのです。

 昔、「花~すべてのひとのこころに花を~」という曲を作った沖縄の喜納昌吉さんが言っていたことを思い出します。たしか「この曲は誰にも真似できないと思います。なぜなら、これは天から私に降りてきた曲だから」という旨の話だったと思います。つまりこういう風に作れば誰にウケるというものではなく、人に感動を与える誰にも真似ることのできない名曲というのは、計算や欲望を超えた純粋な魂から生み出される曲だということです。大して音楽に詳しくもない者が偉そうに言うことでもありませんが、一音楽好きのオッチャンの戯言として聞いてください。 

 歌の話からちょっと外れますが、成熟した今の社会は、現在持っているもので大抵はこと足ります。それでも作る側売る側は少しでも工夫を凝らして新しいものを買ってもらおうと次々新製品を出します。それは便利であり手間がかかっていたことが簡単にできる、つまり効率と合理性を追い求めたものがほとんどです。でもそこばかりを追求すると、どれも同じようなものばかりになってしまいます。

 おそらく本当はそういう枠に入らない何かを、誰もが心の奥底で求めているのではないでしょうか。しかしそれをゆっくり探しているうちにも、次々と便利で新しいものを目の前にちらつかされるのが現代社会です。

 もし新しいものが全てがこの企画で作られてしまったら、また古いものを全てこの企画に置き換えられるとしたら、どうなるでしょう。きっとそれに馴染めないアナログ人間はどこかへ追いやられ、シュッとして見栄えはいいが心の通わない冷徹なロボットのようなデジタル人間ばかりになってしまわないだろうかと心配になります。

 紅白歌合戦を見ていて、ひょっとしてこんなことが歌の世界でも進行しているのではないかと思ったのです。若い人たちは確かに皆スタイルも良く整った顔立ちをしていますが、歌を聞いていてもなにも伝わってこないのです。そして大勢でリズムも動きも合わせて踊る曲が多いですから、もちろん他の人と違っちゃいけないのはわかりますが、どの顔も仕草も曲も同じように見えて見分けがつかないのです。おじさんの感度が鈍いのか、記憶力が衰えたのか、あるいは、やはり今の若い人たちは「皆と違っていてはいけない」という思いが強いからそう見えるのでしょうか。

 この話は少し長くなりますので、続きは次回に書きます。