風流人日記

医王整体院 院長のblog

お引っ越し

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 いえいえ、医王整体院が引っ越しするのではなく、しばらくお世話になっていたeoblogから突然立ち退き命令、いやサービス終了のお知らせがきたのです。

 難しいことはわかりませんが、blogというSNSもいまやTwitterFacebookなどの新興勢力に押されて、利用者が減っているのだろうと思います。

 無料でサービスを受けていた立場で文句など言えません。永年ありがとうございました。

 私自身もTwitterFacebookにも手を染めては見ましたが、どうも馴染めず、Facebookは2ヶ月ほどで撤退、Twitterも自分でつぶやくことはなく注目する人のツィートをたまに見るくらいです。

 ゆらゆらと自然のリズムで生きる風流人にとってはなんだか慌ただしさを感じてしまい、追い立てられるようなそのスピードについていけなかったのだと思います。よくみんな忙しい中これだけせっせと情報発信できるものだと感心もしました。

 

 といったわけで、どやら私にはblogというものが一番自分の生活リズムに合っているような気がしていますので、eoblogが終了してもblogだけは続けていきたいと思い、こちらに引っ越してきました。

 不慣れなHatena Blogで上手く更新できるかどうか不安ですが、気持ちも新たに「風流人日記」として再スタートします。

 なお、写真中心のブログ「Hearing Photographs」は変わらず続けていきますので、引き続きご愛顧ください。

 

縁側という境界

 

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 あるブログに載っていた写真がふと目が止まりました。

 どこかのビルの壁際にパーテーションで仕切られて5台の公衆電話が並んでいる。そのひとつの空間で誰かが電話をしています。しかしそれは公衆電話ではなく、自分の携帯電話で。いつでもどこでもかけられるのが携帯電話の便利さですが、ちょっと今はなあ、ここではマズイなあ、という内容の話もあります。とても深刻で繊細な話になればなるほど、多くの他人がいるところではしたくないはずです。おそらくこの写真の主も大切な微妙に込み入った話をしていたのかもしれません。

 たった一枚の仕切りでも、あるのとないのでは大きな違いです。文字通りのパーテーション(仕切り)によって、自分と隣の人との、あるいは自分と社会との境界線を引ける。それは形だけのものかもしれませんが、その形が大事なのであって、なければかえって見えない強固な心の境界線を作ってしまうのではないでしょうか。 通常、人はオープンな社会的空間とプライベート空間を上手く使い分けて暮らしています。  一昔前には、縁側というとてもゆるやかな境界がありました。そこは壁も塀もない外に開かれた家の縁(ふち)でもあり誰かとめぐり会うご縁の場でもあって、心置きなく人と人が関わることのできる場でした。


 10年近く前、気功体操教室を始めた当初に次のような文章を書いていました。

  家の中でもなく外でもない。やわらかな陽が差し込む縁側に座ってのんびり庭を見つめたり、遠くの景色をぼんやり眺める。勝手口から入ってくる人を、まあ座ってお茶でもどうぞと気負うことなく迎え入れる。  そんな縁側は、かつて、自己の内界と外界との接点であり、人と人とが気軽に交わることのできるコミュニケーションの場でした。  そこではどちらが上でも下でもない。歳の差もない、肩書きも捨てた対等の関係でいられる場所。目上であろうが年下であろうが、お互いを一人の人間として敬う心遣いがありました。  相手の話を聴き、自分の考えを話す。結論は出なくていい。むしろ無理矢理出さないほうがよい。「唯一の正しさ」もここではいらない。百人いれば百様の考え方がある。それぞれが光と影、強さと弱さの両面を持ち合わす。  縁側に座って心を開けば、人は通じ合える。それぞれの境界線を少しずつ譲り合えば、人は優しくなれる。玄関という格式張った空間でないそんな場が、人間関係を円滑にし、人と人が柔らかく繋がることのできる社会を作っていたのだと思います。  遠い過去のものになりつつある日本古来の縁側の発想を小さなコミュニティーのなかで再現したい。気を楽にして学びあえる機会、楽しめる場は、立ち止まって自分を見つめる場でもあり、自分にないもの自分と違ったことを受け入れ、成長していける場になるでしょう。そしてなにものにも縛られないゆるい関わり合いの場で楽しさや心地よさを味わった人たちが、それぞれの生活の場に縁側の発想を取り入れていくことができればいいなあ、と思っています。  一人一人が「開かれた心の縁側」を持てる世の中を目指して。

 その頃、様々な悩みを持っていらっしゃる方のお話を聴いていて、その悩みのほとんどはたとえ表面的には身体の痛みであっても、根底には人間関係の問題があることがわかりました。生まれたときにはすでに日本の住宅から縁側など消えていて、見たこともないし、それがどのような場なのかも知らない人もどんどん増えています。そんな若い人たちは生まれた時から個性だアイデンティティーだと育てられ、大人の多くも核家族化した社会で個人情報の保護だの様々な摩擦から我が身を守るためにと「私」という固い殻を作り上げてしまって、簡単に心を開くことができない社会になっています。以来、ここに書いた懐かしい縁側のような緩やかなコミュニケーションの場を目指そうとやってきました。「私」という固い殻を脱いで心を開ける場が、一人で抱えていた重荷を肩から下ろせる場が、少しでも増えればと思ったのです。  この数十年の社会の変化は境界線のあり方も変えてしまったような気がします。人と人、国と国、まことに境界線というのは難しいものです。他者を受け入れるということは、相手の考えを「それも一理ある」と肯定的に関心を持って聴くことです。決してその考えに自分のすべてを合わせることではありません。「相手には相手の考え方がある」ということを受け入れることです。そして相手の存在そのものを受け入れるのです。相手を受け入れるには、まずは弱い部分やダメなところもある自分を肯定的に見つめることが大切です。そうやって自分を受け入れられていなければ、他者を受け入れることなどできません。
 これからも、一歩でも二歩でも自分の境界線を譲りあえ、違う価値観を認め合える場をともに楽しみたいと思います。  ああまた難しいことは抜きにして、ぼおっと縁側で空を眺め、笑い合いながらゆっくりビールを、いやお茶を飲みたくなってきました。

坐禅に学んだこと

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 先日、生まれて初めての体験となる坐禅会に参加しました。そこで私が気づいたのは、ひと言でまとめてしまうと「この世は支離滅裂である」ということかもしれません。だからそのことを伝えるのは容易くはなく、話が支離滅裂になることをお許しください。
 その支離滅裂をなんとか納得いくようにまとめあげようと苦しんでいるのが我々の姿で、特に近年は複雑な世の中を分かろうと一生懸命情報を集めて疲れている人(私もそういう傾向があり反省しています)が多く見受けられたり、それでも分からず考え過ぎて疲れ果てた末に、大きな声で物事を断言する人の言葉に振り回されたりする傾向(これには私は該当しません。必ずまず疑ってかかる素直じゃない性格ですから)を強く感じます。分からないまま中腰でいることに、みんな堪えられないのです。これは早く答えを出すことを子どもの頃から求められ続けた弊害かもしれません。大人になってもそのクセは抜けず、じっくり時間をかけて自分で考える事をしないで、正しいかどうかも二の次に、誰かに「こうである!」と即座に声高らかに明言してもらうと、きっと安心していられるのでしょう。

 「分かる」というのは「分ける」こと、つまり分析することだと言われています。しかし、より詳しく知ろうとして、一つひとつの事象を分断して細分化すればするほどその実態から掛け離れてしまいます。大事なのは「全体」だと思います。何もかもがまとまりなく、しかしある法則(それが果たしてあるのかどうかもわかりませんが)に則って常に移り変わっていく姿こそがこの世の中なのだという気がします。それを偏った判断をせず、複雑なまま、分からない(分けない)まま、分からないということがわかった上で、ありのままに全体を受け容れることが大切なのだと気づきました。それはつまり、複雑さに耐える力です。
 そんなことを坐禅が終わった後、ぼんやりと考えました。それと坐禅がどう関係あるの?と言われると思います。実は私はこれまで座禅や瞑想は、意識をなにか一点に集中することによって乱れた心を落ち着かせるものだと考えていました。ところがこの度教えられたことは、人間はどんなに余計なことを考えずに「無になろう」と思っても、脳は自動的に次々と様々な思考や感情を作り出すということです。いかなる人もそれを避けることはできません。しかし、その様々な思念の一つひとつを捕まえず、判断せず、浮かんでくるままにぼんやり眺めていると、それらが浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくることがわかります。この世は無常であり、先に書いた支離滅裂で複雑な状態が現れてくるのです。その正体がなにかということをつい知りたくなりますが、そこに脚を踏み入れず浮かんでくるままにしていると、ある一瞬その思考と思考の「隙間」に気づいたのです。それがはたして「隙間」と呼んでいいものか、それこそが「全体」なのかわかりませんが、その瞬間、とても自由な気持ちになりました。このあたりは言葉にするのがとても難しいのですが、「平和で」「なににも縛られない」「そのままでいい」「楽な」といった、やはり「自由」という言葉が一番しっくりくる開放感に浸ることができたのです。カラダも力が抜けてとてもリラックスしている状態でした。

 一つのことにしがみついてしまうと他が見えません。たとえしがみついても、それはいつまでもしがみつけるものではないのですが、しかし、漸くしがみつくことをやめたときにはもう別のしがみつく材料が現れます。つまり、常に変わり続ける事象とは無関係に、いまここで見ているもの聞いているものはすべて脳と心が作り出しているものだということです。自分が都合のいいものだけを見、耳に心地のいいことだけを聞く。いや逆のケースもあるでしょう。過去の嫌な体験にばかり心を奪われたり、聞きたくもなかった悪口にいつまでもこだわり、いま目の前にある喜びに気づけないでいるのが人間です。実生活ではいつもいつも「自由な心」でいることなどできません。だから時々静かに自分の心の状態を観察し、なにかに執着していることに気づき、修正する機会が”瞑想”というものだと知りました。
 人の一生は長いようで短いものです。なにもかもわかるには短すぎる時間です。きっとそのようにできているのでしょう。たとえば誰かのことをなにもかもわかってしまうと、もう次に会う楽しみがなくなってしまいます。謎は謎のままにしておくほうが生きる楽しみになるのではないでしょうか。(実際には変わらないと思っているその人も変わり続けているのですが、、、。)

 初めての座禅会でこんな気づきがありましたが、おそらくそれもほんの入り口を見ただけで、実際はもっと奥の深い複雑なものだと思います。
 うまくまとめようと思いましたが、やっぱり支離滅裂ですね。どうか複雑なまま受け容れ、その複雑さを味わってください。

注射が怖い、検診も嫌い

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 あの一休さんはお正月に「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という歌を詠みました。年の初めから縁起でもないと叱られるかもしれませんが、いろんなことをいつもと違う視点で考える絶好の機会であるお正月だからこそ、私もあえて物騒な話をさせていただきたいと思います。


 「お客様、どれにいたしましょうか? がん、脳卒中心筋梗塞、肺炎、その他にもさまざまなコースをご用意しておりますが、いかがいたしましょうか?」  そんな質問をされたとしたら、あなたならどう答えますか?ほとんどの方は、どれもいやだけど、できればコロリといきたい、そう思われるのではないでしょうか。  私たちは産まれる時期も親も選ぶこともできなければ、死ぬ時期も死に方も選ぶことができません。そう、生老病死はコントロールできないのです。コースどころではありません。明日なにが起こるかもわからないのです。  なにかの病気になって、それが原因で命を落とすこともあれば、その治療に専念して病いから脱出することもあります。しかし、最終的に何によって最期を遂げるかは誰にもわからないのです。


 そんなことを考えると、いくら無料クーポン券(いやあ、これが届いた時には本当にびっくりしました)をもらっても、私は積極的に検診を受けたくはないと思うのです。まあこの歳まで生かしてもらえ、また目前に危機が迫っていないからこそそんなことが言えるのかもしれません。  一概に検診を否定することはいけないと思っていますが、ある程度の年齢になれば、なるようにしかならないと覚悟を決めるしかないのではないかと思うのです。小心者の私など、早期発見とか言われて検診で下手にがんなど病気を発見されたら、そのショックで寝込んでしまわないかと、そちらのほうを心配してしまいます。

 先日こんな研究がBritish Medical Journalという権威の高い医学ジャーナルに発表されました。

 がん検診を受けても受けなくても生存率に変化なし。がん検診によって実際に患者の生存率が上がるかどうかは疑問視する。  特定のがんと診断された患者層が、そのがんを直接原因として死亡する例が減ったのは3種類にとどままった。別の原因も含めた、調査期間中に死亡した患者総数は、早期の検診を受けなかった患者層の全体的な死亡率と比較して、まったく変化がなかった。  早期のがん検診によって、がんによる死亡率が減っても全体の死亡率が減らない理由はまず、がん発見後の治療が患者の身体に与えるダメージが大きく、その治療が原因で命を縮めてしまう患者が少なくないこと。次に、がんと診断されることの精神的なダメージ。3つ目の理由は、腫瘍がすべてその後も生死に影響を与えるほど大きくなっていくわけではなく、そのまま置いておいても死につながらない腫瘍もある。つらい治療を受けさせることで、かえって患者に身体的、精神的なダメージを与えてしまい早期の発見が生存率を高める効果を発揮するにはいたっていない。

 これを読んで恐がりでいつも検診を避けている私は慰められる思いでした。   
 といってもこれはケースバイケースで早期発見できたことによって治療がうまくいき長生きする例もあるでしょうし、この報告のように知らされたことによって寿命を縮めてしまうこともあるでしょう。その選択はとても難しいことだと思いますが、いっそのこと「見ざる聞かざる言わざる」式に、運を天に任せてしまうという選択肢もあるということだと思います。
 検診を受け、無罪放免になって一時の安心を得るのもひとつのやり方ですが、私のような検診を受けない恐がり屋を安心させてくれるこのようなデータもあるということです。真似をするも批難するも皆さんのご自由ですが、私と同様に検診恐怖症の方にはちょっと安心できる材料ではないでしょうか。


 肝心なことは、自分で制御できることとできないことを分けて考えるということだろうと思います。そしてできることはその範囲で精一杯やる。例えば病気になりにくい身体を作るために食事や生活習慣を工夫し、日々養生に努めることは自分でできます。  先の論文に書かれていることがすべてではないでしょうが、安心や不安といった心の状態が身体に及ぼす影響が少なくないのは間違いないことだと思います。不安も安心も人が作り出すものです。つまりそれは物語ですから、出来事をどう捉え、どういう物語を描きながら生きていくかはその人の考え次第ですが、やるだけのことをやったら後は天に任せるくらいの気持ちがないと、いつまでも安心は得られません。一休さんが言いたかったのも、めでたさばかりを求めていてもそれは叶わない。めでたくないこともたくさんある現実を受け容れるニュートラルな心を取り戻しなさいという戒めなのだと思います。  本当の安心が宿るのは、深い呼吸による無駄な力が抜けたカラダと、天にお任せするという覚悟のような気持ちが生まれたときなのではないでしょうか。

「聴く」ことから始まる

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 これで「聴く」というキーワードをテーマに書くのは四度目です。様々なカラダと心にまつわるテーマを取り上げた中で、この「聴く」ことを何度も書くのは、やはり人間同士が生きていく上で話すこと以上に重要なことだと考えているからです。


 誰にも不平不満はあります。それを溜め込んで一人で苦しまないためには、誰かに聞いてもらうことが大切です。その機会がなければ、いつか不満はなんらかの不幸な形で爆発してしまいます。といっても、いくら自分はこんな不満があると相談に乗ってもらっても、すぐによい答えを得られるとは限りません。それでも自分の中に溜まっていた不満や怒り、うまく言い表せないモヤモヤとした気持ちが、誰かにただ静かに聴いてもらうことによって、少しは落ち着いていくということは以前にも書きました。

 一人ひとりの悩み以上に、民族間の紛争、国と国との難しい問題などは、ちょっと話し合ったところでお互いが納得できる解決策が出ることはないでしょう。
 しかし、肌の色が違う、信仰するものが違うというだけで、彼らとは話し合いにもならない、考え方が違う、言ったところで分かるヤツじゃないなどとレッテルを貼ってしまって、相手の言い分を聴くこともせず力で従わせようとしたり、あるいは無視を続けていては、いつまでも対立関係のままです。国際的な大きな問題も、まずは隣人の話を聴くところから始まるのではないでしょうか。いや、それをしてこなかったことが結果として取り返しのつかない事態を招くのではないでしょうか。  そんなことを、先日パリで起きた悼ましい事件に接して思いました。この問題は私が考えるほど単純な問題ではないことは重々承知していますが、それだからこそ当面の対策だけに留まらず、「聴く」という原点に帰って考えなければならないのではないかと思ったのです。

 話せば分かる?そんな考えは甘い、きれいごとに過ぎない、またお前は人殺しの話でも聴くのかと言われるるかもしれません。たしかに今テロ組織に対話を求めても拒否されるでしょうが、私が言いたいのは、人殺しという過激な行動に至らざるを得ないほど彼らを追い詰めたのが対話の窓を開かない態度、つまり差別や貧困の放置ではないかということです。だからこれは一方だけの問題ではありません。話すということも聴くという行為も相手があってのことです。対話を始めるにはまず相手の存在を分け隔てなく認めることが大切です。「話し合える相手ではない」と決めつけてしまっては何も始まらないどころか、それこそが憎しみを深める負の力になります。

 銃で襲撃されたパリのカフェはオーナーがユダヤ人で奥さんはイスラム教徒でした。いろんな社会階層、人種、宗教の人が集うその店は、フランスの共生社会を象徴していてとても居心地がよかったそうです。妻まで失ったそのオーナーは「我々は他者なしでは生きられない。さまざまな人種、宗教がミックスすることで文化が生まれる」と言ったそうです。その店に集まる人たちは、お互いの違いを批判することなく興味を持ち尊重することによって、自分にない様々なことを相手から吸収し、新しい価値観を生みだしていたのでしょう。そんな受容的な空気が流れる店だったのだと思います。  違いを超え共感を持って受け入れる聞き方こそが「聴く」ということです。ただ一方的に自分の主張を訴えられては誰でも拒絶感を持ちます。反対に、相手の話を先入観を捨ててひたすら「聴く」という態度は多くの果実を生み出します。

 パリの人たちの悲痛な叫びばかりが報道される中、私自身どれほどシリアの人たちや各地の難民のことを分かっているのかと問われると、まことに心もとないのですが、少なくとも思いを致すこと(これも聴くことの一つでしょう)だけは忘れたくないと思っています。遠い国のこと以前に、震災のあった東北や基地問題に揺れる沖縄の人々の声なども。

 今回は少し固い話で肩が凝りそうですね。少し体がほぐれるように、最後に私が好きだったボヤキ漫才師、人生幸朗師匠のこの言葉で締めくくりたいと思います。 「まあ皆さん、聞いてください!」。

※これまで「聴く」というテーマで書いた記事もご覧ください。

カラダで聴く、カラダを聴く

痛みを聴く