風流人日記

医王整体院 院長のblog

縁側という境界

 

201610_3

 あるブログに載っていた写真がふと目が止まりました。

 どこかのビルの壁際にパーテーションで仕切られて5台の公衆電話が並んでいる。そのひとつの空間で誰かが電話をしています。しかしそれは公衆電話ではなく、自分の携帯電話で。いつでもどこでもかけられるのが携帯電話の便利さですが、ちょっと今はなあ、ここではマズイなあ、という内容の話もあります。とても深刻で繊細な話になればなるほど、多くの他人がいるところではしたくないはずです。おそらくこの写真の主も大切な微妙に込み入った話をしていたのかもしれません。

 たった一枚の仕切りでも、あるのとないのでは大きな違いです。文字通りのパーテーション(仕切り)によって、自分と隣の人との、あるいは自分と社会との境界線を引ける。それは形だけのものかもしれませんが、その形が大事なのであって、なければかえって見えない強固な心の境界線を作ってしまうのではないでしょうか。 通常、人はオープンな社会的空間とプライベート空間を上手く使い分けて暮らしています。  一昔前には、縁側というとてもゆるやかな境界がありました。そこは壁も塀もない外に開かれた家の縁(ふち)でもあり誰かとめぐり会うご縁の場でもあって、心置きなく人と人が関わることのできる場でした。


 10年近く前、気功体操教室を始めた当初に次のような文章を書いていました。

  家の中でもなく外でもない。やわらかな陽が差し込む縁側に座ってのんびり庭を見つめたり、遠くの景色をぼんやり眺める。勝手口から入ってくる人を、まあ座ってお茶でもどうぞと気負うことなく迎え入れる。  そんな縁側は、かつて、自己の内界と外界との接点であり、人と人とが気軽に交わることのできるコミュニケーションの場でした。  そこではどちらが上でも下でもない。歳の差もない、肩書きも捨てた対等の関係でいられる場所。目上であろうが年下であろうが、お互いを一人の人間として敬う心遣いがありました。  相手の話を聴き、自分の考えを話す。結論は出なくていい。むしろ無理矢理出さないほうがよい。「唯一の正しさ」もここではいらない。百人いれば百様の考え方がある。それぞれが光と影、強さと弱さの両面を持ち合わす。  縁側に座って心を開けば、人は通じ合える。それぞれの境界線を少しずつ譲り合えば、人は優しくなれる。玄関という格式張った空間でないそんな場が、人間関係を円滑にし、人と人が柔らかく繋がることのできる社会を作っていたのだと思います。  遠い過去のものになりつつある日本古来の縁側の発想を小さなコミュニティーのなかで再現したい。気を楽にして学びあえる機会、楽しめる場は、立ち止まって自分を見つめる場でもあり、自分にないもの自分と違ったことを受け入れ、成長していける場になるでしょう。そしてなにものにも縛られないゆるい関わり合いの場で楽しさや心地よさを味わった人たちが、それぞれの生活の場に縁側の発想を取り入れていくことができればいいなあ、と思っています。  一人一人が「開かれた心の縁側」を持てる世の中を目指して。

 その頃、様々な悩みを持っていらっしゃる方のお話を聴いていて、その悩みのほとんどはたとえ表面的には身体の痛みであっても、根底には人間関係の問題があることがわかりました。生まれたときにはすでに日本の住宅から縁側など消えていて、見たこともないし、それがどのような場なのかも知らない人もどんどん増えています。そんな若い人たちは生まれた時から個性だアイデンティティーだと育てられ、大人の多くも核家族化した社会で個人情報の保護だの様々な摩擦から我が身を守るためにと「私」という固い殻を作り上げてしまって、簡単に心を開くことができない社会になっています。以来、ここに書いた懐かしい縁側のような緩やかなコミュニケーションの場を目指そうとやってきました。「私」という固い殻を脱いで心を開ける場が、一人で抱えていた重荷を肩から下ろせる場が、少しでも増えればと思ったのです。  この数十年の社会の変化は境界線のあり方も変えてしまったような気がします。人と人、国と国、まことに境界線というのは難しいものです。他者を受け入れるということは、相手の考えを「それも一理ある」と肯定的に関心を持って聴くことです。決してその考えに自分のすべてを合わせることではありません。「相手には相手の考え方がある」ということを受け入れることです。そして相手の存在そのものを受け入れるのです。相手を受け入れるには、まずは弱い部分やダメなところもある自分を肯定的に見つめることが大切です。そうやって自分を受け入れられていなければ、他者を受け入れることなどできません。
 これからも、一歩でも二歩でも自分の境界線を譲りあえ、違う価値観を認め合える場をともに楽しみたいと思います。  ああまた難しいことは抜きにして、ぼおっと縁側で空を眺め、笑い合いながらゆっくりビールを、いやお茶を飲みたくなってきました。