怒れば気は上り、喜べば気はゆるみ、悲しめば気は消え、恐れると気はめぐらず、寒ければ気は閉じ、暑ければ気は漏れ、驚けば気は乱れ、疲れると気は減り、思へば気は固まる。
古代中国の医書『素問』にこのような一文が書かれています。
人間生きていれば喜怒哀楽の感情は自然に起こります。その感情や環境によって、生命のエネルギーである“気”は、このように変化をするということを示しているのです。決して感情を抑えろと言っているのではないのです。特にこの度のような大災害が起きたときは、心身のコントロールがとても難しいものです。もうあの日からひと月以上経つというのに、私もまだ心の底のざわつきが収まりません。
沸き起こった初期の感情は一次感情と言われます。これは自然に起こるものです。ですから、人によって感受性の違いがありますし、感情の起伏が激しいとか緩やかということもありますが、感情が起きないようにすることはできません。
起こってくるものはどうしようもないのです。問題はこの自然に発生する感情や環境をどうとらえるか、というところです。
一次感情をあれこれひねくり回すことで二次感情が生まれます。一次感情に自分のこれまでの体験による、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかいった判断を加えるということです。言葉にできない原初的な感情が言葉として括られた瞬間と言っていいかもしれません。
つまりこれには“思い込み”がたくさん含まれるのです。憎しみや恨みもこの類いでしょう。これがクセモノなのです。
これは純粋な感情と違って、捏造されたものですから、どうにでも形を変え、ふくらんでもいきます。それによって傷ついたり落ち込んだりすることもあります。ですからその感情が辛いものなら、できるだけ考えないようにするというのも一つの対処方法でしょう。そんな感情を持つ自分は弱い人間だ、と否定的になるくらいなら、いっそ忘れてしまったほうが前向きになれると考える人も多いと思います。
禅では、感情をいつまでも捕まえておくな、と言います。起こった感情は時間が経てばもう過去のこと。目の前の今起こっていることに常に目を向けていると、もうすでに過去のものとなった古い感情には関わってはいられないはずだというのです。
しかし、そんな悟りを開いたお釈迦様でもない凡人のわれわれは、常に沸き起こる感情と向き合いながら、それをいつまでもなぞったり、忘れる努力をしたり、その処理に日々汲々としているのです。どう折り合いを付けるか? これが問題です。
そこで、この医書に書かれていることの出番です。つまり、あらゆる感情によって気はさまざまに動く。気は元々流れ動くものだから、一つの場所に固定させてはいけない、というわけです。
上った気は下ろし、減ったり失ったりした気は補充する必要があるわけです。なかでも注目したいのは、「恐れると気はめぐらず」という箇所と「思へば気は固まる」というところです。他は上ったり、消えたり、減ったりと、みな変化です。ところが、「恐れ」と「思い」はめぐらなかったり、固まったりするということですから、その状態が固定され、変化しなくなっている状態です。「思い」によってさらに色づけされた感情は、先にも書いたように恨みや憎しみが代表格ですから、それらを放さず持ち続けると、当然カラダに良くないことが多いということです。
われわれ凡人にできることは、沸き起こった感情に対して、執拗にこだわったり、反対に無理矢理「なかったこと」にしたりしないことです。その感情をあるがままに受け止めることです。
どんな感情をも抱く自分を、まず認める。そして思いを固定させず動かすことです。それによって気はめぐります。
これは言うのは簡単ですが、実際は難しいものです。でも、それほど深刻なものでないなら、気分転換にカラダを動かすなど、ちょっとした工夫で自分自身で解決できるものも多いはずです。
しかし、たとえば、それがもし自分自身で抱えきれない、動かすのが難しいなら、どこかへ放す(話す)ことです。こうして、気は自分自身の中でも動かし、また自分と他者、あるいは大自然との交流によって、外界とのやりとりをすることが大切です。
現実には、自分自身ではどうしようもないことも多いですから、やはり誰か静かに話を聞いてくれる人や、感情を表わしたり話したりすることで自分が楽になれる「場」を持っていたいものです。