たとえば、カラダのどこかになんらかの痛みや異常を感じたとします。そのとき、あなたは何を考えるでしょうか?多くの人は、「えらいこっちゃ。どうなるんだろう」と不安を感じると同時に、「あれっ?いったい何が悪かったのだろう?」と、自分の身体にまつわる過去の行動を振り返ります。ああ、あの時重い荷物を持ったのがいけなかったんだとか、ソファーで変な格好をして寝てしまったのがいけなかったんだとか、あれこれ思い浮かべます。一応納得のいく理由が見つかればいいのですが、どう考えても原因が思い当たらないことも多いものです。それは痛みというものは複雑なメカニズムで起こるものだからです(痛みの現場で起きていることはだいたい共通することが多いのですが)。ほとんどの場合、原因は一つだけでなく、普段から運動不足気味、多忙で睡眠不足のうえ、からだに疲れがたまっていたところにゴルフに誘われて、といったようにいろんな要因が積み重なって起こるものなのです。そのうえやっかいなのは、そこに心理的な要因が関係することです。なにか仕事上の重大な案件を抱えているとか、家庭内のトラブルで大きなストレスを抱えているとか。意外にもこの心理的ストレスやプレッシャーが最後の引き金になることが多いのです。
いずれにしても、湿布を貼らなければとか、痛み止めを飲もうとか、さまざまな応急処置を考えます。それでもよくならなければ治療に通うことになります。
ところで、痛みを素早く消すことはいいことなのですが、それで痛みが治まってしまえば、もうそれでおしまい。痛みという“結果”に対する対応はしますが、痛みを作った“原因”のほうを改めようとする人は稀です。
ほとんどの痛みや症状は、一瞬のけがでもない限り、ほとんどは普段の生活習慣からくるものがほとんどです。その生活習慣を見直さない限りは、また同じことを繰り返すハメになります。突然身に起きるさまざまな困難は自分ではどうしようもないことがほとんどですが、運動不足の解消や食生活の改善は日々の努力次第でできないことはありません。また、不安や悩みをもたらすさまざまな問題ごとも起こることはどうしようもないとは言え、それに対する「受けとめ方」は変えることができます。
こんなふうに一つの痛みという体験は、じつにいろんなことを教えてくれるものなのです。のど元過ぎればなんとやらではなく、そのときにどう対処し、自分の生活習慣や考え方、受けとめ方をどう変えていくかが問われているような気がします。
昔から生活に留意し健康の増進を図ることを「養生」といいますが、東洋医学では元気を育むためには内気を調え、外邪に対抗することが重要だと考えます。この外邪と闘う部分を担当してきたのが今日の西洋医学です。このお蔭で多くの感染症から命を救うことが出来ました。しかし、その恩恵に甘えてしまい、おろそかにしてきたのが、内気を調えるという部分です。東洋医学では淀んだ気が病気を生むと考えてきましたから、考えすぎたりふさぎ込むことが気を滞らせることになります。こうすればああなると、外側の情報に振り回されて、頭ばかりで考えて内なる身体の声に従わなくなると、気がうまく巡らなくなってしまいます。
便利な機械に頼らず、いのちが命ずるままに体を動かすほうが、気の流れが良くなり、身も心も元気になります。
病気は外的要因ばかりでなるわけではありません。タバコや発がん性の食品などを同じように口にしていても、ガンになる人とならない人がいる。外的な物質だけでなく、生活態度やものの考え方、あるいは心の在りようによって罹患率が変わる。
それがつまり外邪と内邪という考え方です。
痛みが気づかせてくれることは、たくさんあります。