風流人日記

医王整体院 院長のblog

日々是縁日

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 祭りは非日常、たまにあるからいいのである。

 世の中には祭り好きの人も多いから「毎日が祭り」を望む人もいると思うし、祭りじゃなくても「お祭り騒ぎの毎日」を送っている人もいることだろうが、一年中祭りだとあまり喜びを感じたり血湧き肉躍ることがないのではないか。第一、仕事にならないじゃないか(まあ、それが仕事の人もいるでしょうが)。

 

 風流人日記もやっとコロナ以外の話になったかと思われたかもしれないが、残念ながらそうではない。

 コロナの感染が急拡大する四月の中旬だったか、突然うちの隣の焼肉屋さんの駐車場に屋台村ができたのだ。村というほど大がかりなものでもないが、テントを二張りほど並べて、広島焼き・焼きそば・たい焼きなどを売っている。

 焼肉の強烈な煙と匂いにも困惑していたが、それは夜の間だけの話。今度は連日朝からまるで縁日、祭り騒ぎである。

 ソースの焦げる匂い、少し甘いたい焼きの香り。ああ祭りの匂いだ、などと懐かしがったのは開店初日だけ。来る日も来る日もあの匂いを嗅がされると、懐かしいどころではなく、もうこのさき二・三年は焼きそばもお好み焼きも食べる気がしない。 せっかくの薫風かぐわしい五月の爽やかさも台無しだ。窓も開けられない。

 こんなふうに、コロナは日常と非日常を逆転させてしまった。

 なにもこれは世界の片隅の我が家のこんな小さな話だけではない。新学期が始まる時期になっても、子どもたちは休校で学校に行けない。仕事のために会社に行くのが当たり前だった人たちの日常も、リモートワークとやらで大きく変わった。多くの勤め人は会社に行かず遠く離れた家で仕事をすることになった。そうかと思うと、医療関係者や生活必需品を扱うお店の方は、無理を押してでも職場に行き、感染に細心の注意を払いながら仕事しなければならない過酷な状況だ。

 そうなのだ。私たちが常日頃当たり前と思っていた日常など、何かの拍子に簡単に壊れてしまうのだ。

 いつもいつまでも平穏で変化のない日常などありえないという事実を改めて突き詰められたのだ。

 新型コロナウイルスは、これまで我々を取り巻く身の回りには日常を覆すたくさんの要素があったのに、見て見ぬふりをしていたということを教えてくれた気がする。

 私たちは常に死の危険とともに生きている。安定した常は無い「無常」の世を生きているのだ。まあそんなことをいつも考えながら生きるのもしんどい話だが、時には死を想う作業をしながら現実と向き合わなければならない。

     メメント・モリ。 死を忘れるなかれ。

 

 この新しいコロナウイルスパンデミックを起こすかもしれないという話が現実化しようとしていた時、一番に頭に浮かんだのは「覚悟」という言葉だった。

 それは新型コロナウイルスに対する覚悟と同時に、たとえこのウイルスでなくてもたくさんの病気をはじめとした死の危険の中で生きていかなければならない覚悟を改めて思い起こしたのである。

 死を考えることは、生を、つまり「いま・ここ」をどう生きるかを考えることだと、多くの本や人から教えられた。いま、全くその通りだと思い直している。

 「いま・ここ」を大切に生きるということは、不測の事態が起こるかもしれない明日への覚悟ということかもしれない。

 さて、これを機にこれからの人生なにを拠り所に、どんなふうに暮らしていこうかと考えた人は少なくないと思う。でもそれは国から「新しい生活様式」などと押し付けられることではない。私は「行動変容」は自分で決めさせていただく。まあ、現実的には私の行動はこれまでと大きく変えるつもりはないのだが、行動よりも、「いま・ここ」を暮らす覚悟をより一層固めたいと思うのだ。

 覚悟はなにも死への覚悟だけではない。早くなくてもいい、という覚悟。少なくてもいい、という覚悟。喜びばかりでなくてもいい、面倒臭くてもいい、新しいものじゃなくてもいい、違ってもいい、一色でなくてもいいという覚悟。毎日ソース焼きそばの匂いに耐えて暮らす覚悟。いやはや、たくさんの覚悟がいるもんだ。

 でもこの後、世の中がどう変わるのかわからないが、「大変やったね」だけで「元の暮らし」に戻ってはいけない気がするのだ。

 

おうめ婆さんという道しるべ

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 世界中がウイルスの恐怖と不安であわやパニックという状況ですが、寝ても覚めてもシャワーのように降ってくる恐怖の情報から、たとえ一時でも離れなければ体が持ちません。

 頭が混乱し、モヤモヤと霞がかかったように前方を見渡せなくなった時に手にする本があります。南木佳士さんの小説「阿弥陀堂だより」です。私にとって、道に迷った時に見る地図のようなものです。

 登場する96歳になる「おうめ婆さん」が語る一言一言が、深く胸に突き刺さります。そして視界を覆う霞を、力強くしかし優しい陽の光で蒸発させてくれるように道が拓けてくるのです。また新しいスタート地点に立ったような気がします。

 質素で気張らない自らの生活を語りながら、「何も難しく考えることはない。あるがままに歩んでいけばいいんだよ」、そうおうめ婆さんは教えてくれているような気がします。

 

 舞台は信州の山あいの集落。その中腹にひっそりと建つ集落の先祖を祀る「阿弥陀堂」の堂守として、一人で暮らすおうめ婆さんを時々訪ねてはいろんな話を聞き、それをまとめたものが「阿弥陀堂だより」として村の広報紙の一角に載せられています。コラムを書くのは役場の助役さんの一人娘で難病を抱える小百合さん。

主な登場人物は、この村に生まれ、東京で物書きとして暮らしていた孝夫さんと医師である美智子さん。美智子さんが心の病を得たのを機に夫婦共々故郷であるこの村に戻ってきたというところから始まります。

 

 映画化もされたこの話の筋は、DVDを観るなり、じっくり本を読んでいただきたいと思いますが、ここではいつも私が迷った時に指針にする幾つかの言葉を紹介したいと思います。

 

 目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次へと苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬ間に96歳になっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿の秘訣かもしれません。

 

 畑には何でも植えてあります。・・・質素なものばかり食べていたのが長寿につながったのだとしたら、それはお金がなかったからできたのです。貧乏はありがたいことです。

 

 雨の日だとか雪の日は体を動かさなねえから、やっぱり寝つきが悪いでありますよ。そんなときゃあ、ろくなことを考えねえから、そこの湧水の音を聞いて、水になったつもりで川に出て流れて下ることを考えてみるのでありますよ。そうすりゃあいつの間にか寝てるであります。

 

 96年の人生の中では体の具合の悪いときもありました。そんなときはなるようにしかならないと考えていましたので、気を病んだりはしませんでした。気を病むとほんとの病気になってしまいます。

 

 南無阿弥陀さえ唱えてりゃあ極楽浄土へ行けるだと子供の頃にお祖母さんから教わりましたがな、わしゃあ極楽浄土なんぞなくてもいいと思っているでありますよ。南無阿弥陀を唱えりゃあ、木だの草だの風だのになっちまった気がして、そういうもんと同じに生かされてるだと感じて、落ち着くでありますよ。だから死ぬのも安心で、ちっともおっかなくねえでありますよ。

 

 阿弥陀堂には入ってからもう40年近くになります。みなさんのおかげで今日まで生かしてもらっています。阿弥陀堂にはテレビもラジオも新聞もありませんが、たまに登ってくる人たちから村の話は聞いています。それで十分です。耳に余ることを聞いても余計な心配が増えるだけですから、器にあった分の、それもなるたけ良い話を聞いていたいのです。

 

 何度もなんども読んだ「阿弥陀堂だより」。もう次の展開や台詞も知っているのに、読むたびに感極まり、涙を流して、その度に少し心が清く、楽になるのでありますよ(おうめ婆さんの口調で)。

〇〇貯金

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 500円玉貯金とかがちょっとしたブームだそうで、私も今さらながら貯金を始めました。政府に老後のために2000万円貯めろと言われたからではありません。貯めるのはお金でもストレスでもありません。
 「許す」という行為です。最近、人間力というものはどれだけ人を許せるかで決まるのではないかと思い始めたのです。まあ今さら私が言わなくても昔から人格的に優れた人はそういう器の大きい人だったのでしょうが。
 生きていく上で困難なことは山ほどありますが、この「許す」ということほど難しいことはないという気がするのです。これができれば人として一歩、いや二十歩くらい成長できるんじゃないかと思ったのです。
 余談ですが、この「ゆるす」という字をどの漢字で書こうかと辞書を引いて、おもしろい発見をしました。だいたい「許す」と書く人が多いかと思いますが、その他に「赦す」という字もよく見かけます。驚いたのは「聴す」という書き方があったのです。このブログにも何度か「聴く」ということをテーマに書きましたし、私が大切にしている「よく聴く(傾聴)」「観察する」という意味の「聴く」です。
 その「聴く」には「ゆるす」という意味まで含まれるのだ。思い込みをなくしひたすら聴くという行為そのものが、すでに相手を受け入れ許していることになるんだ。ちょっと大袈裟ではありますが思わず「おおっ」と声を上げてしまいました。

 話を元に戻しますが、ある時、この「許す」行為をやってみたのです。これまで数え切れないほど腹の立つ許しがたいことをする人がいて、案の定その日も許せない!と叫びたいことがいくつもあってハラワタが煮えくり返っていたのですが、なぜかその日は相手を責めず、誰にも愚痴をこぼさず、怒りと許せない気持ちをそっとしておいたのです。もういくら言っても仕方ないと諦めの境地だったのかもしれません。
 そして翌朝。目が醒めると、不思議なことにそのことが記憶としては残っているのですが、それほど気にならない。それどころかとても爽やかな気分を味わったのです。「許す」というのはこういうことか、なかなかええやん、と思ったわけです。
 忘れるということを待たず(もともと嫌なことは忘れようと思ってもなかなか忘れられないものですが)、積極的に許した方が気持ちの回復が早いことに気づきました。
 こんなに気持ちのいいことならちょっと続けてみるかという気になり、これを積み重ねていけばあわよくば「いい人」になれるのではないか、なんて調子のいいことも考えました。
 そこまではまあいいのですが、またまた欲が出て、この貯金を増やせば、自分が相手に迷惑をかけて怒らせたり困らせたりした時に、これで精算して許してもらえるのではないか、などと虫のいい妄想が始まります。
 でもそれでいいじゃありませんか。なるべく誰かに許してもらうという借金を作らず、こちらの「許した」残高を多くしておくと幸せな気分になれるなら。

 でも貯まり具合は他人任せです。何しろ誰かに腹がたつようなことをしてもらわないことには「許す貯金」のしようがない。だからいい人ばかりと付き合っていると全然貯まらないのです。積極的にあまり気の合わない人とも関わらなければなりません。でも世の中はうまいことできてます。そんないい人ばかりではありません。私を怒らせ貯金をさせてくれる人は、いつでもどこにでもちゃんといます。
 もしそれでも貯まらない時は自分を許すことにします。自分に腹がたつことは、他人に腹を立てさせられることに匹敵するほどたくさんありますから。

 そんなわけで、今年は「許す貯金」を貯めながら、飄々と柳で暮らすことにします。
 気に入らぬ風もあろうに柳かな。

分解と再構成

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 前回は「何かを一つやめると全体が変わる」ということを書きました。それが私の場合は「朝テレビをつけない」という簡単なことだったのですが、これは別にテレビだけでなくていろんなことに応用できる気がして、もう少し別の角度から書いてみたいと思います。

 まずその「一つやめると全体が変わる」ということのメカニズムについて考えてみます。
 よし!この際、気分一新全館リニューアルだ!などと大上段に構えなくても、何か例え一つの小さなことでもそれをやめることによって、全体が大きく変わることもあります。
 分子生物学福岡伸一さんが提唱する「動的平衡」という考え方があります。これは生物(生命体)は常に分子の分解と再構成を繰り返しながら秩序を保っている、という概念です。逆に言えば、固定して動かない、変化のない状態では生きていけないということです。
 私たちを取り囲む環境も変わり続けているのですから、人間もその変化に対応するには、壊しながら作り続ける状態を維持してバランスと秩序を保っているのです。
 これはまさに気功と同じ考え方です。川の流れと同じように気は本来、常に流れ動き続けているのです。流れが滞ると川が淀むように、気の流れの滞りこそが病気の原因だと考えられています。

 ところが人には欲があります。有名な理論として「マズローの欲求五段階説」というものがありますが、人間は生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→承認欲求→自己実現欲求というように、一つの欲求が満たされると次の欲求を満たそうとする心理的な行動を表しています。
 詳しい解説はここでは省きますが、これを見ても人間の欲求はどこまでもキリがないように思えますが、最終的には自己実現を目指して成長していくのが人間だという考え方です。
 何を持って自己実現を達成したかは人それぞれだとは思いますが、成長していくためには一定の欲は必要なものかもしれません。
 しかしそれも行き過ぎると良い成長ができなくなります。例えば生理的欲求の一つである食欲をとっても、生命活動を維持するための必要最低限に止めておけばいいところを、ついもっとたくさん、もっと美味しいものをとなってしまうと、成長どころか体を壊してしまいます。足るを知らないと、欲は際限なく膨れ上がります。
 ガンディーも「獄中からの手紙」の中で、「世界に広がる悲惨な貧困も必要以上の所有に因るといえる。必要以上のものを所有するのは盗みである」と書いています。

 いま地球規模で問題になっているCO2の問題をとっても、先の福岡伸一さんは「CO2自体は外でも毒でもない。人間活動が作りすぎたCO2を他の生物や植物が吸収しきれない”滞り”が問題なのです」と言っています。この流れを滞らせているのが、人間の膨らみすぎた欲望・執着心なのかもしれません。
 仏教では執着が強いほど苦悩が深くなるといいます。

「朝テレビをつけない」から話がずいぶん遠いところに来てしまいました。ブレない確固とした信念も大切なのでしょうが、それは根っこの問題で、柳のように吹く風を柔らかく受け止め、逆らわずしなやかに枝を揺らす柔軟さと、必要以上のものを手放す勇気が必要なのでしょう。
「何かをやめる」は抱え込んでいた「何かを捨てる」ことでもあり、それによって常に新しい自分を保っていられるのかもしれません。

 

変わるには何かをやめてみる

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 多忙につきしばらくお休みをいただいていました。と言っても、脳が機能停止に陥ったわけではなく、日々様々な考えが頭をよぎってはいました(なんの言分けにもなりませんが)。 
 むしろそれがなかなか文字にできない状況を作っていたのかもしれません。書きたいことは山ほどあるのですが、考えることがありすぎてまとまりのつかないことになっていたのだと思います(やっぱり言分けだ)。
 何れにしてもそれはあまり良い状態とは言えないかもしれません。
 先日いつも聴いている「健康川柳道場・しあわせの575」というラジオの番組で、師範が「多忙は体に悪い。脳を働かすのは50分が限度。疲労は脳からくるから上手に脳を休ませないといけない。」というようなことを話していました。そうしないといい川柳も生まれないようです。

 多忙な中でも久しぶりにこうして考えをまとめることができるようになったのは、実は「朝テレビをつけない」という習慣がしばらく続いたからだと思います。
 それまでも、できるだけ朝はバタバタしたくないので早起きして仕事にかかるまでの時間をゆったりとるようにしていました。それはまだほとんどの人が活動を始める前から起きて、静かなうちに脳内も含めて身の回りのいろんなことを整理する時間でした。
 でもそうは言うものの、結構朝の時間も瞬く間に過ぎていき、時間がなくなると朝ごはんを食べながらテレビを見て新聞を読むという荒技をこなすことも多かったのです。
 それがその一つのテレビをやめただけで、見違えるほどの余裕を感じられるようになったのです。それはそうですよね。なにしろテレビは画面を見なくてはいけないわ、音声も聞かなくてはいけないわ、ツッコミを入れるボヤく、CMが入ると今度は新聞に目をやるなどと、こうして書き出してみるだけでも大変なたくさんのことをしながら、口に入れたパンをコーヒーで流し込むなんてことをしていたのですから。単細胞頭の私には無謀とも言える難易度の高いことだったのです。

 そんなこれまで習慣化してしまって気づかなかった簡単なことを教えてくれたのは、「怒らない禅の作法」(枡野俊明著)とういう本です。怒りのコントロールを勉強しようと手にした本でしたが、意外なところで生活を好循環に導いてくれました。考えてみると、そもそもなぜイライラしたり怒りを感じたりするのかというと、やはり心に余裕がないからなのでしょうね。何があっても少し間を置くことができたり、相手の立場を考えて許すことができるのは、気持ちに余裕がなければできません。いつもイッパイイッパイの状態は、例えて言えば爆発寸前のパンパンに膨れた風船のようなものです。一触即発とはこのことです。
 朝テレビをつけないという習慣は、風船に余裕を持たせるための効果は大でした。必要な情報は新聞の中から自分で探せばいいのです。

 だれもが社会生活をしている限りは、日々様々な困難に遭遇します。そしてすぐには解決しないたくさんの問題や課題を抱えながら生きていかなければなりません。そんな状況でテレビをつけシャワーのように降り注ぐ余分な情報まで背負ってしまっては、身動きが取れなくなってしまいます。私の場合、テレビを消すだけでも本当に向き合わなければならない大切な問題が浮き彫りになり、それについて考える時間の余裕が生まれました。
 そうはいっても最後には解決できない問題を中腰のまま抱えていられる力も必要ですが、そんな風に自分で選び抜いた問題は、そうでないことに比べて持ちこたえられるものだということもわかりました。
 そして何より、ちょっと怒りの回数も減った気がします。枡野先生ありがとうございました。