立ち止まる時間
ほんとに速いことはいいことなのでしょうか?
乗り物のスピード、パソコンの処理能力、連絡したいと思えばすぐにかけられる携帯電話。
お客が注文したら、待たせずにすぐに出てくる料理。
時間内に正確さと量の両方を求められる試験。訊かれたらすぐに答えなければならない。ゆっくり考えている暇などない。
スローライフなどという言葉が流行っても、そんな悠長なことは言ってられない。
早くしないと、みんなから置いていかれる。
早さを求められるのは外でのことだけではない。子どもがスピードに追い立てられるのは家でも同じこと。
「早くしなさい!」「ぐずぐずしない!」
こんな言葉が親の口から飛び出すのは、大人が焦りを感じ、イライラしている証拠です。
みんな、そんなに忙しいの?
そんなにたくさんやらなければならないことがあるの?
それがあるんですね。あるというより作り出す。
早くするから、し終わって空いた時間にまた次のことを急いでしてしまう。
社会が人を急がせる仕組みになっている。その仕組みに乗るからどんどん忙しくなる。
まわりが慌ただしいから、自分も何かしていないといられない。じっとなんかしていられない。
それではただまわりに合わせているだけ。自分の時間なんかないのと同じです。
自分の時間がないから、すごく忙しく感じてしまうのです。
そして疲れ果てて、みんな口々に言います。
「たまにはゆっくりしたいなあ」「ちょっと、のんびりしようよ」
きっとこれが本音なのでしょう。
もう世の中のスピードについていくのは疲れた。ちょっとのんびりしないと息が続かない。そう感じているのがカラダの正直な感想でしょう。
本当に一刻を争うことなど、一生の間にそうたくさんはないような気がするのですが。
自分時計・社会時計という考え方があります。
自分時計は自然のリズム。社会時計という人工のリズムに合わせていると、自然の時間と自分がかけ離れてしまい、リズムが狂って苦しくなる。
ときどき立ち止まって、自分のリズムを確認し、狂った時計を自然の標準時に戻すことが大切です。
立ち止まったら、ちょっと座ってみる。
寺という字は「土」と「寸」でできている。ドスンと読むらしい。
寺はドスンと座って話を聴いたり語り合ったりするところでもあるそうです。
座ると落ち着く。腰を下ろして自分にゆっくり耳を澄ますと、なにかが変わってきます。
座って、スピードや結果よりも、プロセスを味わい楽しむ余裕を取り戻したいものです。
空白の時間、沈黙の時間を大切にしたい。
ただそこにいることを大事にしたい。
別に寺でなければならないことはありません。
立ち止まって自分を見つめることができる場所ならば。
語ることができ、それを受けとめてくれる場をひとつでも見つけておきたいですね。
合理性や効率優先の社会のシステムが狂ってしまい、先行きの見えない息苦しさに包まれた今、そんなことを思います。
きっと社会全体が今、立ち止まって何が大切かを問い直す時なのかもしれません。