年末になると毎年のように同じセリフを繰り返す。
「一年って早いですねえ。この間お正月を迎えたと思ったら、もう年末」。
挨拶代わりにこんな会話を交わす機会が多い師走。
その早さも、歳を追う毎にスピードが増す。
2年ほど前に初めて老眼補正の入った眼鏡を作った。近視もあるので、いわゆる遠近両用というやつだ。
老眼と言うと、当たり前だが“年寄り”というイメージが強かったため、かなり抵抗感があった。
要するに、なかなか自分の老化現象を認めたくないわけだ。
しかし身体は正直である。ごまかしは通用しない。
近くのものにピントが合わずイライラすることが多かったから、必要に迫られて止むなくである。
しかし、近頃のはほとんど境目も目立たず、フレームさえ流行のものにしておけば誰も“老眼鏡”とは気づかない。気にしたり抵抗しているのは自分だけだということに気づく。
やっとの思いで作ったその眼鏡も、わずか2年余りで合わなくなってきた。それをかけていても近くの小さい字が見づらくて、本を読む時は結局眼鏡を外している。
時間が経つのが加速度的に速くなっていくことと歩調を合わせて、老化も加速していくのだろうか。
まあ今は、お蔭さまでからだの方は視力以外は特に不都合なく元気でいられるからそんな悠長なことを言っていられるのだろうけど、これから先、少しずつからだのあちこちに不自由さを感じるようになるのだろう。
「老い」ということは、そんなことをひとつひとつ受け容れていくことなんだろうなと、ぼんやり考えている中年の日々です。
こんなことを書くと「若造に何が分かるんだ!」と、老いの諸先輩方からお叱りを受けそうな齢なのだが、、、。
歳を追う毎にいちばん顕著になるのはなんといっても「物忘れ」だろう。特に人の名前が思い出せず、「え〜と、ほら、あの人」というぐあいに。
でもこれが同じような年格好の者同士だとけっこう分かりあえるところが面白い。
相手もその名前が出てこないのだが、「ああそうそう、あの人ね」というふうに。
物忘れなんてあまり喜ばしいことではないと思うのが普通だが、画家であり作家でもある「老人力」の提唱者、赤瀬川原平さんは、それを歳をとったとか、モーロクしたとか、ボケてきたという代わりに、「老人力がついてきた」と明るく表現する。
そういうふうにいうと、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいいらしい。物忘れをしたりボケたりすることさえ、ひとつの「ちから・エネルギー」だという新しい発想である。
最近この「老人力」という本も文庫化されたので、ぜひご一読ください。
なんだか、歳をとることが楽しくなる不思議な本です。
今の世の中は情報化社会というわれるほど情報が氾濫しているが、その本の中で興味深いことが書かれている。
「特に若い人たちは情報社会にひたっているんですね。情報社会って、みんなケチになるんです。情報を全部抱えこもうとするから、ぱっと捨てられなくなる。老人力って、捨てていく気持ちよさを気づかせてくれるんですよ。ボンボン忘れていくことの面白さ。情報的にスリムになると、自分が見えてくるというか、もとにある自分が剥き出しになってくる。反対に情報で身の回りを固めていると、情報が自分を支えてくれる代わりに、生じゃなくなってくるというか、自分がなんだか干からびてくるんですね。だから、いまの人たちって、コツコツ情報を溜めこんで、けっこう苦しそうだったりするでしょう。・・・・だから、情報はガンガン捨てていったほうがいいんです」
確かにそのとおりだなあ、と思う。
なにか情報こそがすべてであって、情報を征するものが世の中を征するというような風潮が蔓延している。もちろん重要な情報もあるだろう。しかし反面、どうだっていいような、知らなくてもなんの支障もない無駄な情報があふれている。
そんな不要な情報までも抱えこんでしまうと、身動きがとれないうえに情報に押しつぶされてしまう。
如何にたくさんの情報を集めるかが大事だった一昔前と違って、いまは必要な情報だけを選別する能力のほうが重要なのだろう。
知ってしまったばっかりに、大きな不安を背負い込んでしまうことも多い。
「知らぬが仏」なのである。
人生の後半戦は、必死になって情報を集めてばかりいるよりも、抱えこんだ情報を整理整頓し、きれいに掃除していく時期でもあるのだと思う。