風流人日記

医王整体院 院長のblog

「写真を撮る」こと

 なぜ写真を撮ることが好きなのか。撮った写真を見たひとが「わあー、きれいですね」「おお、いいねえ」と云って、なにかを感じとってくれるのは確かにうれしい。しかし、それだけのために撮っているわけではない。目の前に広がる世界の一部をファインダーという枠組みにはめ、数多くの情報から自分だけが感じとったものに集約する作業と、それをフィルムに焼き付けるためにシャッターを切る瞬間の音と指の感触に、たまらない魅力を感じるのだ。おそらく、この自分が感じたものを写真という形に収めることと、それを共感してくれるひとがいること、このふたつのことが相まって写真を撮ることを続けているのだと思う。
 第24回「土門拳賞」に受賞された坂田栄一郎さんの受賞の言葉を読んで、つらつら写真とはなんだろうと考えた。

 坂田さんは云う。「何故にその被写体なのかという明快な言葉の構築にはほとんど興味がありませんでした。ただ、尋常ではない情熱に裏打ちされた感性の命ずるままにシャターを切るというその行為そのものに魅せられ、そのこと自体が生きる証でもあったために、根拠というものにこだわる必要がなかったのです」
 しかし、しだいに被写体に対する思い込みの正体が見えてきたという。それは、この世を照らす最も強く、最も暖かな光であるところの『愛』だと云う。「一瞬の愛が放つところの偉大な力と美を写真で捉える快感が、それ以上の仕事に目を向けさせてくれませんでした・・・なぜなら、愛こそが人生最大の関心ごとであり、生きることのテーマであると固く信じているからです」「いかなる悲惨な状況下にあってもけっして火を絶やすことのない、地味ではあっても逞しい愛を、人間も含めた自然のなかに見いだし、それを濁りのない眼差しで見つめ、レンズを通して自分の魂のなかへ取り込み、世に発信しつづけることが、写真家としての私の役目に違いないという信念を、この歳になってようやく自覚できるようになりました」

 私のように趣味道楽でやっていることにいちいち説明などいらないと思うが、これまでこころを引きつけられ、ただ直感的にシャッターを切ってきた「被写体の正体」が、坂田さんのコメントのなかにみつけられたような気がする。そして、いつでも「濁りのない眼差し」を持っていたいと思う。