風流人日記

医王整体院 院長のblog

便利ということ

Vsro9svu 近頃どうも気になって仕方ないことがある。
サービスがきめ細かく行き届きすぎて、個人がかける手間をすべて奪ってしまおうとしているんじゃないか、ということだ。
以前、不便を楽しむというところでカメラのことを書いたが、趣味の世界での一例であるそんなことが、あらゆる分野で起きている。

便利には違いない。便利さの恩恵を受けていることがたくさんあるのも事実だ。
しかし、楽しんでやっている手間まで奪われてしまったら、どんどん楽しみがなくなってしまう。楽しんでやる行為には、面倒だとか不便などという感覚はない。
もうすでに、私たちの生活は充分に便利といえるほどになっているのではないだろうか。
それでも、すぐに、手軽に、便利に、楽になどなど、様々なキーワードで、少しでも楽をしたいという人間の欲望をくすぐるように、どんどん新しい商品やサービスが産み出される。
でもそこに、余計なお世話だ!と言いたくなるようなコトやモノが多い。
しかもそれを押し売りしてくる。

すぐでなくて結構です。私はゆっくり待ちたいんだから。
手軽でなくていいんです。時間をかけてゆっくりやりたいんです。
便利じゃなくてもいいんです。不便を楽しんでいるのです。
楽だけが欲しいんじゃないんです。苦しさの後の楽を味わいたいのです。
そう思っている人も多いのではないだろうか。
そんな人は便利なサービスを利用しなければいい、とおっしゃるかもしれないが、日本全国総過剰サービス化してしまって、何をするにもいやでも利用せざるを得なくて選択の余地がないのだ。

こうやって楽をして得た時間を人は何に使うのだろう。
生活のほとんどの部分を他人に任せ、自分は自分の専門の仕事をする。これを近代化された豊かな社会というのかもしれないが、あまりにも分断化すると考え方や身体の使い方が偏ってしまうような気がする。
自分の専門の仕事をして疲れた頭や身体を、日常生活上の手間ひまかけた別の動作で気分転換することで休めることもできるのだ。
手間をかけ、汗をかき、微妙な身体の動かし方をする。そんなことまで奪われてしまった人間は、首の上に巨大なコンピュータを載せた頭でっかちロボットになってしまいはしないだろうか?
そして、待つことや我慢することができないロボット人間が増えるのではないだろうか?
どこまでもあらゆることを手間暇かけないように自動化しても、いつまでも心は満たされないのではないだろうか?