風流人日記

医王整体院 院長のblog

3Dテレビと思考の平面化

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 この間まで「地デジだ、薄型テレビだ、エコポイントだ」と大騒ぎしていたのが少し静かになったと思ったら、今度は3Dテレビの宣伝がにぎやかです。皆さんそんなに今のテレビに不満があるのでしょうか?少なくとも私はなんの不満もありません。自慢じゃないですが、うちはいまだに14インチの“アナログ放送用”テレビです。まだまだよく見えるし、よく聞こえる。不満があるとすればテレビ自体の性能ではなく、放送される番組の内容です。もう少し“タメになる” “感動的な”番組を作ってもらわないと、地デジとかなんとかいう以前に、つまらなくてもうテレビは見なくなってしまいそうです(実際TV離れが進んでいるようです)。

 近頃、歳のせいかボヤキが多くなりましたが、言いたいことは「着せ替え人形のように見かけだけをコロコロ変えるのでなく、中身で勝負してほしい」ということです。つぎつぎと目先を変えた新しいものを出しても、内容が伴わなければ人の心の深い部分は動かないのではないでしょうか。

 ただ便利だとか、かっこいいだとか表面的なことで飛びついても、結局またすぐに飽きてしまう。メーカーも売れなくなると化粧だけ塗り直して、また新しいものを出す。それではただの資源の無駄遣い、「もったいない」の象徴です。本当はみんな、うわべだけの目新しさに踊らされるのでなく、もっと心の深い所が豊かになりたいのではないでしょうか? 心が満たされるということは、モノじゃなく、人と人、人と生き物や自然などとの心のこもった関わり合いからしか生まれないのではないかと思います。

 ではどうすればいいのかという話ですが、私はまず、もう一度「人間関係とは不便なものだ」という原点に帰らなければならないと思うのです。これだけは科学がどんなに進歩しても、時代が歴史を重ねても変わらないと思います。それに比べて生活そのものはどんどん便利になっています。そのギャップに人々はイライラ感を募らせているような気がします。

 みんなそろそろ、そんな複雑怪奇な人間関係から逃れて便利で快適な空間に身を置いてみても、そこには退屈とむなしさしかないことがわかってきたんじゃないでしょうか。

 だからもう一度、原点である関わり合い、それがとても不便で面倒なものであるというところに立ち返って、不便の中に身を置きながらじっくりそのことに向き合っていく時間と気持ちの余裕を作らなければならないと思います。

 身体を使わなくてもできるようにするのが便利さですから、便利さはどんどん身体を置き去りにします。今は人とのコミュニケーションは実際に顔をつきあわせて会わなくても、携帯やネット上で簡単にできます。それもコミュニケーションのひとつだとは思いますが、少なくとも日本語の「対話」や「関わり合い」「思いやり」という言葉とは少しかけ離れたもののような気がします。相手の目を見、息づかいを感じながらお互いの心の奥にまで思いを馳せることが本当の対話ではないでしょうか。つまりひとつの空間で身体を伴った関わりでしか、真の関係性は生まれないと思うのです。そんな現状ですから、心の感性ばかりでなく、身体の感性までも退化していっている気がします。

 対人関係なんて失敗の連続です。失敗し、心と身体でその痛みを感じながらわかっていくしかないのです。いくら人間関係のノウハウ本を読んでも一度くらいは成功するかもしれませんが、自分の身につくことはないでしょう。これだけは苦労せずに得られることはありません。必要なのは時間をかけること、身体を使うこと、無駄に見える余白を大切にすることです。

 テレビの映像がたとえ平面的であっても、人間は想像力を巧み使ってイメージを作り上げる能力を持っているのです。3Dテレビはその想像力を技術化した素晴らしいものですが、それを一例とする最近のテクノロジーは、形にできない人の心の力を弱らせるような気がします。衰弱してきたその心の力のひとつは悩む力だと思います。悩むことにくじけず、悩み尽くす力。すぐに答えが出なくても耐える力。待つ力。そういったことがすなわち生きる力ではないでしょうか。

 大切なのは映像の3D化ではなく、平面的になってしまった思考を再び3次元の思考に戻すこと。つまり物事をいろんな方向から立体的に見て発想する力を、与えられるのでなく、自分自身で取り戻すことではないかと考えます。