風流人日記

医王整体院 院長のblog

「観察」から見えてくるもの

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 森友学園問題で国会に証人喚問に立ったあの籠池さんが、「事実は小説よりも奇なり」と薄笑いを浮かべながら発言したときの様子が、なぜかとても印象に残っています。あの言葉の奥にはとても意味深いことが隠されていたと思いますが、森友問題はここではさて置くとして、確かにどんな奇想天外な小説を作ったとしても、それ以上に想定外の事が起こるのが現実です。
 人生はそんな考えもつかない偶然の積み重ねかもしれませんね。

 仏教因果律に立ちますから、偶然はなく全ては原因と結果があるとしますが、我々はそのすべての関係性を知ることができませんから、とんでもないことが起きるとどうしても偶然のように思ってしまいます。その偶然は時に残酷であり冷淡でもあります。神も仏もないのかと嘆きたくなることがあるかもしれません。
 人はそんな不幸を味わいたくないから、幸福へのシナリオを描き、一路ゴールを目指します。しかし台本があるとどうしてもそれに頼ってしまいます。
 頼るというよりも、既定路線通りに進むための台本ですから、そのとおりにするのは当然です。

 でもそれは幸福への最短距離かもしれませんが、それ以上のなにも生まれないし、生まれたとしてもそれに気づきにくいのではないでしょうか。先を急ぐあまり、刻々と変わる「いま」を感じている暇はないのです。台本にはない、今ここでしか観察できないことを見落としてしまいます。
 まあ実際には台本通りにいくことのほうが少ないのですが、、、。

 また今ここを見つめることができたとしても、われわれは本当の現実の姿を見ているとはいえないことが多いと思います。常に自分の偏見や思い込みというフィルターを通して見てしまう。そのフィルターの一つが台本という未来図や予定表かもしれません。こうなるはずだとか、こうなるべきだとか。

 私が「観察」ということに注目するようになったのも、実は台本にはなかった偶然です。でもこれも「いまここ」を大切にしたい思いから日々問い続けているなかでの出会いという意味では、必然の気づきかもしれません。

 観察は過去や未来ではない、いまここで起きていることに何も判断を加えずに、耳を澄まし目を見開きすべての感覚器を通して感じることです。辞書を引くと「物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること」、仏教語としては「智慧によって対象を正しく見極めること」と書かれています。 そういう意味では観察するという行為は「瞑想」に似ていますね。  いまここを注意深く観察することによって、事前情報や台本に書いてあることよりもっと素晴らしい現実を知ることができるかもしれません。偶然に見える現実は本当に奇妙なものですが、曇りのない目で見ると意外な気づきや発見があります。

 普段から気功や瞑想を実践する中で、雑念が邪魔をしてなかなか集中できないと嘆く方も多いと思いますが、雑念を取り払うよりも、目の前で起きていることをひたすら注意深く観察するというイメージに切り替えると、うまくいくかもしれません。

 また私たちは無意識のうちにいつものようにいつものやり方で行動しますが、その行動パターンや癖からから脱出したいと思うときにも、「観察」はとても有効だと思います。
 「観察」、それは普段私たちが見落としている大切なことを気づかせてくれる、とても奥の深い行為だと思います。

 さあ、「観察」で、未知の世界への旅に出かけませんか。