風流人日記

医王整体院 院長のblog

内部感覚

 感覚とは通常、身体の外からの刺激を感じ、認識することである。もちろん外からだけでなく、身体の内側の感覚も感じとれる仕組みになっているから、お腹が痛かったり筋肉痛を感じたりするのだが、どちらも普段あまり意識することなく、つまり「感じよう」などと思うことなしに、ほとんどが無意識のうちに感じ、そしてそれに身体が自動的に対応してくれている。
 ほんとにこれでいいのだろうか?
 まあ、そういう素晴らしい機能が備わっているのだから、そのお言葉に甘えていてもいいのだが、たまにはもう少し積極的に「身体の中の状態を探る」ということをしてもいいのではないだろうか。
 というのは、通常内部の感覚を感じるのは、「痛い」という感覚がほとんどだろう。「痛い」と感じる時には、すでになんらかの異常をきたしているのだ。それを未然に防ぐことが、「身体の中の状態を探る」ということなのだ。
 痛いとか吐き気がするとか、辛い感覚だけではない。心地良いなど、身体が喜ぶ感覚もまたそうである。例えば食べるとき、誰でも美味しいとか不味いとか、舌に備わった味覚によって味わっている。もう少し感覚の優れた人は、目で楽しみ、鼻で香りを味わい、ビールのコマーシャルでよく耳にするように、のどごしまで感じているだろう。しかし、食べたものが食道を通り、胃に入っていくところまでは、追いかけていられない。つまり、身体が喜ぶ感覚を、一部の感覚器官だけでなく、もっと全身で積極的に感じることが、生命活動にとっては好影響なのではないかと思うのだ。

 人はうれしいことがあると、全身で喜びを表したくなる。たいてい、うれしいことは身の回りで起き、それが自分にプラスの影響があることがわかると喜ぶ。これを、身体の内側からも起こしてみたらどうだろうか。

 現代人の感覚は、外へ向きすぎているような気がする。もちろん、生き馬の目を抜くような今の社会で暮らしていくには、ぼ〜っとはしていられない。無意識のうちに、常に意識のアンテナを高〜く立てていなければならないと思ってしまう。しかし、時には外へ向いたアンテナを、内に向ける必要があるのではないか。もっとひとつひとつの臓器に目を向けてあげることはできるんじゃないか。

 外から入ってくる情報は、種々雑多である。暑さや寒さなど自然の情報はありのままの情報であるが、その他のいわゆる言語として伝わる情報は、ほとんどが加工された二次情報だ。その二次情報を、また頭の中でこねくり返す。それと比べて、身体の内部の情報は、これはありのままの一次情報である。それをまた、脳で様々な判断を下してしまうと、二次情報になってしまうのだが、とりあえずは、確かなナマの情報であるに違いない。二次情報にしてしまわないためには、判断せずに味わうことが大切だ。

 そういう内部感覚をじっくり味わう機会が少なくなり、情報収集能力が落ちたことが、なんでもかんでも外部に助けを求める結果に繋がっているのではないだろうか。自分の身体の状態を感じる力も、異常を修復する力も、すべて自分の中に持って生まれているにもかかわらず。もちろん、外部の力を借りなければならない事態もあるだろう。しかし、たいていのことは身体の中にある潜在能力がこなしてくれているのだ。それは、外に頼ることによって、ますます力を発揮できなくなってきてるんじゃないだろうか。

 時には外からの情報を遮断し、言葉によって判断することをやめると、眠っていた内なる治癒力が、俄然頭角をあらわすんだと思うのだが。