風流人日記

医王整体院 院長のblog

揺れ動くカラダとこころ

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 このブログを読んでいただいている方の年代は様々だと思いますが、誰もが一度は赤ちゃんを抱いてあやした経験をお持ちのことだと思います。「ワシは一度もそんなことしたことがない」という男性の方でも、自分が赤ん坊の頃あやされたことがあるのではないでしょうか。

 あやし方はいろいろあると思いますが、だっこしたりおんぶしたりすると、ほとんどの場合ゆらゆら揺らしますよね。これはたぶん自分が幼い頃そうされてとても心地よかった経験があるから、無意識のうちにそうするのではないでしょうか。その幼い頃というのは、この世におぎゃ~と生まれた後でもあるでしょうし、もう少しさかのぼってお母さんのお腹の中にいる頃かもしれません。お母さんが動けば羊水に浮かぶ胎児もその動きに合わせて揺られます。胎内は安心できるとても居心地がいい場所らしいのです。だから産まれてからも揺らしてあやされると赤ちゃんは安心するのでしょうね。

 そんなことで、大人の方にも揺れることの気持ちよさを味わってもらおうと、気功体操教室でも「揺れる」動作をたくさん取り入れています。

 揺らされて気持ちがいいのは先に書いたような理由が大きいと思いますが、この「揺れる」ということをもう少し考えてみましょう。揺れるということは固定されない、つまり常に動き、変化しているということです。この変化こそはこの世の中の自然の摂理です。諸行無常というように、すべてのものは常に移り変わり続けています。一所に留まっていると落ち着いて動きがないようですが、そのなかでも小さな変化があるのです。誰もが産まれたら歳をとり老いていくように、まったく変化しないことなどありえないのです。

 これは誰にも変えることのできない自然の法則ですが、気持ちの上で変化がなくなってしまうととてもしんどいものです。たとえば今の社会がそうです。先行きが見えずに閉塞感が漂っています。変化はあるんだけれどその変化がどうも見えにくい。悪いほうへ向かっている気がしてならない。そう思う人が多いんじゃないでしょうか。そんな中、人々の心には余裕がなくなり、争いごとが起こったり、いじめや自殺者が増えたりしています。なぜこれほど閉塞感を感じるのかというと、いろんなことの許容範囲がとても狭くなってきているからではないでしょうか。

 いつでもどこでも簡単に様々な情報が手に入ると、常に自分を他人と比較して見るくせがついてしまい、そのなかでこうあらねばならないという強迫観念に縛られている人が多い気がします。基準値、偏差値、平均値等々、どんどん狭められる許容範囲の中に何とか入っていなければならない。皆と一緒に決められたマニュアルどおり動かなければ置いていかれる。そう感じさせる世の中です。

 昔は身近なところにも平均値から外れた人物(私もそうだったかもしれません)がたくさんいました。人に迷惑をかけ困らせたりもしましたが、それはそれでまわりの人たちがその存在を認め、大きく包み込み、その人の居場所を作っていたのだと思います。

 理想を追いかけるのはけっこうですが、「人はこうあるべきだ」「健康のためにはこうしなければならない」「幸せはこうしてつかむものだ」と何もかもルールや基準を作ってしまって、そこに収まることが当然のように思わされる社会です。たまたまそんな理想的な状況に恵まれることもあるでしょう。しかしそれもいつまでも続くとは限りません。いま基準値の範囲にいなくてもかまわないのです。揺れ動く変化に逆らわなければ、いつか思いもよらない幸運に出会うかもしれません。

 難題にぶつかり身動きが取れなくなった時、揺れ動くことによって幼い頃の「快」の感覚を思い出し、この世は常に変わり続けることを思い起こしてほしいと思います。自ら揺れ動くことによって、あるいは人と出会い心が揺さぶられることによって、窮屈になった身体と心に隙間ができ、遊びが生まれ、余裕が出てくると思います。