風流人日記

医王整体院 院長のblog

注射が怖い、検診も嫌い

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 あの一休さんはお正月に「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という歌を詠みました。年の初めから縁起でもないと叱られるかもしれませんが、いろんなことをいつもと違う視点で考える絶好の機会であるお正月だからこそ、私もあえて物騒な話をさせていただきたいと思います。


 「お客様、どれにいたしましょうか? がん、脳卒中心筋梗塞、肺炎、その他にもさまざまなコースをご用意しておりますが、いかがいたしましょうか?」  そんな質問をされたとしたら、あなたならどう答えますか?ほとんどの方は、どれもいやだけど、できればコロリといきたい、そう思われるのではないでしょうか。  私たちは産まれる時期も親も選ぶこともできなければ、死ぬ時期も死に方も選ぶことができません。そう、生老病死はコントロールできないのです。コースどころではありません。明日なにが起こるかもわからないのです。  なにかの病気になって、それが原因で命を落とすこともあれば、その治療に専念して病いから脱出することもあります。しかし、最終的に何によって最期を遂げるかは誰にもわからないのです。


 そんなことを考えると、いくら無料クーポン券(いやあ、これが届いた時には本当にびっくりしました)をもらっても、私は積極的に検診を受けたくはないと思うのです。まあこの歳まで生かしてもらえ、また目前に危機が迫っていないからこそそんなことが言えるのかもしれません。  一概に検診を否定することはいけないと思っていますが、ある程度の年齢になれば、なるようにしかならないと覚悟を決めるしかないのではないかと思うのです。小心者の私など、早期発見とか言われて検診で下手にがんなど病気を発見されたら、そのショックで寝込んでしまわないかと、そちらのほうを心配してしまいます。

 先日こんな研究がBritish Medical Journalという権威の高い医学ジャーナルに発表されました。

 がん検診を受けても受けなくても生存率に変化なし。がん検診によって実際に患者の生存率が上がるかどうかは疑問視する。  特定のがんと診断された患者層が、そのがんを直接原因として死亡する例が減ったのは3種類にとどままった。別の原因も含めた、調査期間中に死亡した患者総数は、早期の検診を受けなかった患者層の全体的な死亡率と比較して、まったく変化がなかった。  早期のがん検診によって、がんによる死亡率が減っても全体の死亡率が減らない理由はまず、がん発見後の治療が患者の身体に与えるダメージが大きく、その治療が原因で命を縮めてしまう患者が少なくないこと。次に、がんと診断されることの精神的なダメージ。3つ目の理由は、腫瘍がすべてその後も生死に影響を与えるほど大きくなっていくわけではなく、そのまま置いておいても死につながらない腫瘍もある。つらい治療を受けさせることで、かえって患者に身体的、精神的なダメージを与えてしまい早期の発見が生存率を高める効果を発揮するにはいたっていない。

 これを読んで恐がりでいつも検診を避けている私は慰められる思いでした。   
 といってもこれはケースバイケースで早期発見できたことによって治療がうまくいき長生きする例もあるでしょうし、この報告のように知らされたことによって寿命を縮めてしまうこともあるでしょう。その選択はとても難しいことだと思いますが、いっそのこと「見ざる聞かざる言わざる」式に、運を天に任せてしまうという選択肢もあるということだと思います。
 検診を受け、無罪放免になって一時の安心を得るのもひとつのやり方ですが、私のような検診を受けない恐がり屋を安心させてくれるこのようなデータもあるということです。真似をするも批難するも皆さんのご自由ですが、私と同様に検診恐怖症の方にはちょっと安心できる材料ではないでしょうか。


 肝心なことは、自分で制御できることとできないことを分けて考えるということだろうと思います。そしてできることはその範囲で精一杯やる。例えば病気になりにくい身体を作るために食事や生活習慣を工夫し、日々養生に努めることは自分でできます。  先の論文に書かれていることがすべてではないでしょうが、安心や不安といった心の状態が身体に及ぼす影響が少なくないのは間違いないことだと思います。不安も安心も人が作り出すものです。つまりそれは物語ですから、出来事をどう捉え、どういう物語を描きながら生きていくかはその人の考え次第ですが、やるだけのことをやったら後は天に任せるくらいの気持ちがないと、いつまでも安心は得られません。一休さんが言いたかったのも、めでたさばかりを求めていてもそれは叶わない。めでたくないこともたくさんある現実を受け容れるニュートラルな心を取り戻しなさいという戒めなのだと思います。  本当の安心が宿るのは、深い呼吸による無駄な力が抜けたカラダと、天にお任せするという覚悟のような気持ちが生まれたときなのではないでしょうか。