風流人日記

医王整体院 院長のblog

無いものねだり

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 近所の田んぼから蛙の歌が聞こえる季節になった。今の住居に越してきた頃はまだまわりのあちこちに田んぼや畑があって、毎朝散歩していると季節ごとの色や匂いや音を楽しむことができた。年々それは宅地に変わり、もう季節を感じるのは空を見上げた時と、肌に感じる風と温度や湿度くらいになってしまった。

 そんなふうに未練がましく昔を懐かしむようなことを言うが、当時は田植えの時期、街が寝静まった頃に窓を開けていると、競いあうように大きな声で啼く蛙の声がうるさいとも感じたものだ。

 それがいまでは、わずかに残された田んぼから聞こえる初夏の音色が耳に心地よく感じる。まったく人間はわがままなものだ。

 自分たちでどんどん征服しておいて後になって失った自然を懐かしむ人間どものわがままなどお構いなく、人間以外の生き物たちは残された自然環境を一生懸命たくましく生きているようだ。

 

 一昨年の春、我が家の軒下にツバメが巣作りをしに通っていた。いつ巣が完成するかと楽しみに見守っていたのだけれど、なかなか作業は進まない。近頃の建材は汚れがつきにくい加工が施されているようで、ツバメがせっせと運んでくる藁や小さな枝が壁にうまくくっつかなくて、すぐに崩れ落ちるようだ。いまいましいカラスの威嚇もあって、懸命の努力も甲斐なく数日で諦めたようで、巣は作りかけのままツバメは姿を見せなくなった。

 ツバメは幸せを運ぶというから期待していたがとても残念な思いをしたので、次の年、今度こそはと、巣作りがしやすいよう台座を作ってみた。しかし、ツバメはその年も巣作りをすることはなかった。いくら人間が人工的な工作をしても、自然はそんなことはお構いなしにあくまでも自然に機能するんだと思った。

 

 でも考えてみるとこれから日本の都市に産まれてくる子どもたちの多くは、舗装された道路、隙間なく建つ家やビルに囲まれ、土も畑も田んぼも見ずに育つことになる。

 辛い出来事や、このところの腐敗した政治を見ていると心が萎えてしまいそうになるのだが、そんな時でも、自然に接することでわずかでも息を吹き返すことができるのだけれど、これからの子どもたちは何を喜びとして暮らしていくだろうかとつい余計な心配をしてしまう。

 ゲームやスマホがあればそれで事足りるのだろうか。ヴァーチャルな映像で自然でも何でも見ることができれば、それが仮想だとわかっていても手軽に体験できればそれでいい。本物を見ることが難しくなった時には、そう思うことで納得するしかないのだろうか。

 でも、仮想体験で感動したものは、きっと実物をこの目で見たいと思うはずだが、、、。

 

 政治に正義を求めることも、無くした自然を取り戻したいと思うことも、無いものねだりなのだろうか。

 

 そんなことをぼんやり考えている時、かつてブラジルで行われた環境サミットでの12歳のカナダの少女のスピーチを思い出した。

オゾン層にあいた穴をどうふさぐのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどう生き返させるのか、あなたは知らないでしょう。どう直すか分からないものを壊し続けるのはやめてください」。

 われわれ大人の感覚はすでに麻痺しているのか、いや気づかないふりをしているだけかもしれない。

 

 

 次々と凄惨な事件や事故が起き、頭が混乱して考えがまとまらないうちに、もう今年も半分が過ぎようとしています。

 その間に元号も平成から令和に変わり(うちのパソコンはまだちゃんと令和と変換しませんが)、何やら追い立てられるような日々です。

 そんな中、今回はちょっと立ち止まって足元の自然のことを考えてみました。