風流人日記

医王整体院 院長のblog

紅白歌合戦に思う現代社会

f:id:chrismiyagishi:20190107144857j:plain

 新年あけましておめでとうございます。

 今年もお正月からぼやいております。突然切れる老人が増えていると聞きますが、ぼやいているくらいならまだ可愛いもんだ、と大目に見てやってください。

 そんなことで、今年も人のカラダと世の中を注意深く観察しながら、気づいたことを少しづつ書いていきたいと思っております。

 今年も変わらずよろしくおつき合いください。

  **********************

 正月はなぜか昔の思い出がよみがえることが多いのですが、みなさんも子供の頃の家族で過ごしたお正月を思い出したりしませんか。

 大晦日といえば何と言っても紅白歌合戦でしょう。これを見なければ新しい年が来ないというくらい重要な行事の一つでした。でもいつからでしょう、別に紅白見なくてもいいや、となったのは。

 歌の世界も当然世代交代があります。自分が歳をとるということは、同世代の贔屓の歌手も同じように歳をとり、引退したり亡くなったりすることもあります。そして次の世代の若い歌い手にバトンタッチされ、それによって新鮮さを感じるからこそ、マンネリ化せず毎年見ていたのだと思います。

 ところが、見なくても別にいい、あるいは見たいと思わなくなったのは、その新鮮なはずの若い世代の歌手たちの歌に感動しなくなったからです。別に若い歌手の人たちは考えの古いおじさんになど共感してもらわなくてもいいと思っているのかもしれませんが、ちょっと前までは年配者でも感動する若者の歌があったと思うのです。それだけオマエの感性が鈍ったのだと言われれば仕方ありませんが、いい歌いい曲というのは年齢に関係なく人を惹きつけるものだと思います。

 今は歌に限らず、なんでもターゲットを絞り込んで売り込む時代かもしれませんが、仮にそうならば、歌を売れるように作り込んでいるということになります。それはそれでいいのですが、私が音楽に求めるのは、やはりどれだけ心に響くかということです。そしてそれは作り手がこうすれば売れるという細工や計算づくではなく、自然発生的に生まれたものではないかと思うのです。

 昔、「花~すべてのひとのこころに花を~」という曲を作った沖縄の喜納昌吉さんが言っていたことを思い出します。たしか「この曲は誰にも真似できないと思います。なぜなら、これは天から私に降りてきた曲だから」という旨の話だったと思います。つまりこういう風に作れば誰にウケるというものではなく、人に感動を与える誰にも真似ることのできない名曲というのは、計算や欲望を超えた純粋な魂から生み出される曲だということです。大して音楽に詳しくもない者が偉そうに言うことでもありませんが、一音楽好きのオッチャンの戯言として聞いてください。 

 歌の話からちょっと外れますが、成熟した今の社会は、現在持っているもので大抵はこと足ります。それでも作る側売る側は少しでも工夫を凝らして新しいものを買ってもらおうと次々新製品を出します。それは便利であり手間がかかっていたことが簡単にできる、つまり効率と合理性を追い求めたものがほとんどです。でもそこばかりを追求すると、どれも同じようなものばかりになってしまいます。

 おそらく本当はそういう枠に入らない何かを、誰もが心の奥底で求めているのではないでしょうか。しかしそれをゆっくり探しているうちにも、次々と便利で新しいものを目の前にちらつかされるのが現代社会です。

 もし新しいものが全てがこの企画で作られてしまったら、また古いものを全てこの企画に置き換えられるとしたら、どうなるでしょう。きっとそれに馴染めないアナログ人間はどこかへ追いやられ、シュッとして見栄えはいいが心の通わない冷徹なロボットのようなデジタル人間ばかりになってしまわないだろうかと心配になります。

 紅白歌合戦を見ていて、ひょっとしてこんなことが歌の世界でも進行しているのではないかと思ったのです。若い人たちは確かに皆スタイルも良く整った顔立ちをしていますが、歌を聞いていてもなにも伝わってこないのです。そして大勢でリズムも動きも合わせて踊る曲が多いですから、もちろん他の人と違っちゃいけないのはわかりますが、どの顔も仕草も曲も同じように見えて見分けがつかないのです。おじさんの感度が鈍いのか、記憶力が衰えたのか、あるいは、やはり今の若い人たちは「皆と違っていてはいけない」という思いが強いからそう見えるのでしょうか。

 この話は少し長くなりますので、続きは次回に書きます。