風流人日記

医王整体院 院長のblog

紅白歌合戦に思う現代社会

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 新年あけましておめでとうございます。

 今年もお正月からぼやいております。突然切れる老人が増えていると聞きますが、ぼやいているくらいならまだ可愛いもんだ、と大目に見てやってください。

 そんなことで、今年も人のカラダと世の中を注意深く観察しながら、気づいたことを少しづつ書いていきたいと思っております。

 今年も変わらずよろしくおつき合いください。

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 正月はなぜか昔の思い出がよみがえることが多いのですが、みなさんも子供の頃の家族で過ごしたお正月を思い出したりしませんか。

 大晦日といえば何と言っても紅白歌合戦でしょう。これを見なければ新しい年が来ないというくらい重要な行事の一つでした。でもいつからでしょう、別に紅白見なくてもいいや、となったのは。

 歌の世界も当然世代交代があります。自分が歳をとるということは、同世代の贔屓の歌手も同じように歳をとり、引退したり亡くなったりすることもあります。そして次の世代の若い歌い手にバトンタッチされ、それによって新鮮さを感じるからこそ、マンネリ化せず毎年見ていたのだと思います。

 ところが、見なくても別にいい、あるいは見たいと思わなくなったのは、その新鮮なはずの若い世代の歌手たちの歌に感動しなくなったからです。別に若い歌手の人たちは考えの古いおじさんになど共感してもらわなくてもいいと思っているのかもしれませんが、ちょっと前までは年配者でも感動する若者の歌があったと思うのです。それだけオマエの感性が鈍ったのだと言われれば仕方ありませんが、いい歌いい曲というのは年齢に関係なく人を惹きつけるものだと思います。

 今は歌に限らず、なんでもターゲットを絞り込んで売り込む時代かもしれませんが、仮にそうならば、歌を売れるように作り込んでいるということになります。それはそれでいいのですが、私が音楽に求めるのは、やはりどれだけ心に響くかということです。そしてそれは作り手がこうすれば売れるという細工や計算づくではなく、自然発生的に生まれたものではないかと思うのです。

 昔、「花~すべてのひとのこころに花を~」という曲を作った沖縄の喜納昌吉さんが言っていたことを思い出します。たしか「この曲は誰にも真似できないと思います。なぜなら、これは天から私に降りてきた曲だから」という旨の話だったと思います。つまりこういう風に作れば誰にウケるというものではなく、人に感動を与える誰にも真似ることのできない名曲というのは、計算や欲望を超えた純粋な魂から生み出される曲だということです。大して音楽に詳しくもない者が偉そうに言うことでもありませんが、一音楽好きのオッチャンの戯言として聞いてください。 

 歌の話からちょっと外れますが、成熟した今の社会は、現在持っているもので大抵はこと足ります。それでも作る側売る側は少しでも工夫を凝らして新しいものを買ってもらおうと次々新製品を出します。それは便利であり手間がかかっていたことが簡単にできる、つまり効率と合理性を追い求めたものがほとんどです。でもそこばかりを追求すると、どれも同じようなものばかりになってしまいます。

 おそらく本当はそういう枠に入らない何かを、誰もが心の奥底で求めているのではないでしょうか。しかしそれをゆっくり探しているうちにも、次々と便利で新しいものを目の前にちらつかされるのが現代社会です。

 もし新しいものが全てがこの企画で作られてしまったら、また古いものを全てこの企画に置き換えられるとしたら、どうなるでしょう。きっとそれに馴染めないアナログ人間はどこかへ追いやられ、シュッとして見栄えはいいが心の通わない冷徹なロボットのようなデジタル人間ばかりになってしまわないだろうかと心配になります。

 紅白歌合戦を見ていて、ひょっとしてこんなことが歌の世界でも進行しているのではないかと思ったのです。若い人たちは確かに皆スタイルも良く整った顔立ちをしていますが、歌を聞いていてもなにも伝わってこないのです。そして大勢でリズムも動きも合わせて踊る曲が多いですから、もちろん他の人と違っちゃいけないのはわかりますが、どの顔も仕草も曲も同じように見えて見分けがつかないのです。おじさんの感度が鈍いのか、記憶力が衰えたのか、あるいは、やはり今の若い人たちは「皆と違っていてはいけない」という思いが強いからそう見えるのでしょうか。

 この話は少し長くなりますので、続きは次回に書きます。

 

騙されないチカラ

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 フェイクニュースなどと偽物のことをわざわざ「フェイク」と英語で言うようになりましたが、本物・偽物という言葉があるということは、昔から世の中には本物以外に偽物がそこそこ幅を利かせていたということでしょうね。そういえば、偽物のブランドバッグとか時計が流行した時期もありました。まあそれはそれで「わたし別に安ければ偽物でもなんでもいい」という人もいるくらいですから、本人さえ納得していれば、騙されたということにはならないのでしょう。

 しかし、国の運営を任された政治家や官僚が嘘をつくのは困ったことですし、大手企業がデータを改ざんしたり不正が目に余る世の中、いったいわれわれは何を信じればいいのかと戸惑ってしまいます。

 

 人は自分のカラダに変調があるとやっと本気でそのことについて勉強し始めます。健康なあいだはテレビなどでいかにいい加減なことを言っていても、ああそうなのかと気楽に聞いているだけで、疑ったり真剣に考えることはそれほどありません。健康だからそれを試すすべもないのですが、逆に言えば健康な人の不安を煽って何かを売ろうとする策略に載せらるということも考えられます。

 

 いずれにしても、情報の真偽を見極める能力が必要です。それもできるだけ健康なうちに。病気になってしまってからでは遅いこともありますから。

 まんまと引っかからないために私が基準にしていることは、

① 無料あるいは極端に安いものには近づかない。

②良い点だけしか言わないところは信用しない。

③自信たっぷりに言う人を信用しない。(世の中に絶対というものはありません。絶対に!)

④それをした場合、使った時のことを想像してみる。

⑤一つの意見や考えだけに注目せず、幅広く様々な方向から情報を集める。

⑥あとは勘を働かせることでしょう。

 まあこれも確信をもって言うわけではありません。むしろ私は自信がありませんから、何事もまず疑ってかかるようにしているだけです。

 

 思想家の内田樹さんの、ある大学の新入生への講演を聴く機会ががありました。「学校で何かを学ぶなかで一番大事なことは、騙されない力を身につけること」と話されて、私は目から鱗が落ちる思いでした。社会に出て生きていくために必要な専門知識を身につけるのが大学教育だと思っていましたが、もっと基本的な深いところで一番大切なことはそういうことかもしれません。

 学校の教室の中で学べることはそう多くはありません。私自身の経験からも、むしろ教室の外での友人との対話や、クラブ活動、アルバイト先での人間関係を通して学ぶことのほうが多かったように思います。おそらく内田先生の言葉は、学校の外でのことも含めて幅広い場で様々な体験を通して、自分の頭で考え、自分の身を守るすべを身につけなさい、という意味のことだと理解しました。

 そんな一つ一つの実体験が勘を働かせ、直観的にものごとの真偽を見極める力を育むのでしょう。幅広く情報を集めることも大切ですが、それ以上に実際に自分で体験し肌で確かめることのほうが、この情報化社会を生きる上で大事なのではないでしょうか。テレビやネットでただで手に入る情報は、よくよく確かめなければなりません。

二つの無邪気

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 とても残念なことですが、みなさんご存知の「ちびまる子ちゃん」の作者、さくらももこさんが8月15日亡くなられました。

 私も子供が小さい頃は一緒に見てはよく笑ったものです。

 ファンの一人である明治大学教授の斎藤孝氏も彼女を悼み、「さくらワールドに触れると、笑いとともにムダな力が抜けて、一息入る。この脱力が人生の奥義だ」とコメントしていました。また次のようにも言っています。「小学三年生こそ人生のゴールデンエイジで、話は通じるがムダな動きが多くてすぐ盛り上がる。のんきに暮らしているのに、人生としてトータルに伸びるのが小学生時代で、彼女はその小三感覚を日本中の人に思い出さ、幸福感を与えた」。

 

 このコメントを読んで、私の思考はすぐについこの間テニスの全米オープンで優勝した大坂なおみさんに繋がりました。彼女の天真爛漫さは周りの人を脱力させ、なんだかホッとして幸せな気持ちにさせてくれるように感じるのです。全米オープン優勝という偉業を達成してもなお、気張らない。

 アニメと現実社会の違いはありますが、いま無邪気という言葉がもっとも似合う人は、彼女とちびまる子ちゃんだろうと思います。

 なにより一緒にいて疲れない人だと思うのです。何か言わなければならない、何かしてあげなければならない、そんな心配は無用で、お互いに気を使うことなく、ただその場に一緒にいるだけで安らかな心になれる。そんな人はなかなかいないけれど、運良く出会うことができるととても幸せな気分になりますよね。

 

 私は彼女が優勝したことは大いに喜びたいのですが、それ以上に、ああいう無邪気さと無駄な力を入れない姿勢こそ、実績のある大選手に対して強みを発揮するのだということを証明してくれたことのほうが嬉しいのです。

 もちろん、無邪気だなんて評するのは私の勝手な思い込みかもしれないし、勝った一番の要因は血の滲むような練習の成果だったかもしれません。

 

 「大会にいいコンディションで臨むために、プレッシャーは役に立つ」。彼女は「今回優勝したことで、次の試合へのプレッシャーはありませんか」というインタビューにそう答えていました。

 「無邪気」という姿勢には、誰もが重荷に感じる「プレッシャー」さえも、少し奮起するためのいい刺激になるんだと思います。

 

 大きな災害続きで昂ぶる気持ちを、小さなちびまる子ちゃんと、大きな大坂なおみさんの二人の無邪気が、穏やかにしてくれました。

暑さも気分次第

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 天気予報では連日「危険な暑さにご注意ください」と呼びかけていますが、確かに日中、影のない道を歩くと、容赦なく照りつける光線と地面からの熱気に殺気を感じるほどです。気象庁はこの暑さを「災害」とまで言うほどですから、みなさんどうか無理をなさいませんように。

 私も毎朝のウオーキングの時間を早めたりして、できるだけ体に負担をかけないようにしているのですが、日の出前でも途中に設置されている温度計を見ると28℃を超えることもあります。

 こうなるといくら運動のためと思っても、どうしても歩くのが億劫になります。そこでモチベーションを上げるためにスニーカーを新調してみました。軽くて履き心地のいいやつです。

 新しいスニーカーで歩き始めた最初の日は、気温こそ前日と変わらぬ熱帯の朝のような暑さでしたが、快適になった足元にばかり意識が向いて、感じる暑さは三分の一くらいにまで軽減しました。心なしか、風も少し爽やかに感じます。 

 靴が軽くなっただけで気分も軽快になるのですから、人間なんて単純なものです(私だけかもしれませんが)。

 そして靴を新調して三日目。ついにスニーカー効果(と勝手に命名しています)が現れました。なんと気温が4度も下がって24℃の快適な朝が訪れたのです。28℃に慣れた体にとって、24℃は極楽みたいなものです。

 人の気分は天候をはじめとした周りの環境に左右されるものですけれど、こちらの気分が自然環境に影響を与えることもあるのかもしれない、などと妄想してしまいました。

 まあそんな単純なものではないことは百も承知ですが、たとえそうだとしても、暑い!苦しい!ええ加減にせい!と叫んでいるよりは、靴でも新調して気分を変えると、少しは感じる暑さが和らぐ気がします。

 季節はまだ7月、これから夏本番のの8月を迎える

わけですが、さて、スニーカー効果はいつまで続くこ

とでしょう。

 

 もう一つ暑さにまつわる話を。

 今朝ラジオで聞いた話ですが、どこかの会社は「真夏日猛暑日手当」として、気温が30度を超える真夏日に400円、35度以上の猛暑日には800円を支給するらしいのです。400円に設定した理由は「生ビール一杯の値段」ということです。そうなるとビール大好きの私など、よ~し今日もどんどん気温よ上がれ!なんて念じながら通勤してしまいそうです。

 話のわかるいい社長さんだと思いますが、今年は毎日生ビール2杯飲める日が続いていますから、「早く涼しくなることを祈っています」とのことです。

 

 暑いと誰もが不機嫌になりやすいものです。機嫌が悪くてイライラすると、頭に血が上って益々暑くなります。またそういう人の近くにいるだけで、体感温度も2~3度上がるのではないでしょうか。この社長さんのようにユーモアを感じる気遣いや、自分でもできるちょっとした工夫で気分転換をすることによって、少しでも上機嫌でいる方が、体にもいいのではないかと思います。

 暑中お見舞い申し上げます。

ちゃんと悩む

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 「ちゃんと悩む」って、変なタイトルですね。そうです、できたら悩みたくなんかないですよね。でも、どうすれば悩みがなくなるかではなく、どうすればちゃんと悩めるか、という話です。


 最近はインターネット上で「検索」という手段があまりにも広く深く浸透したため、「相談」という行為が少なくなってしまいました。「相談」という行為の中では、ああでもないこうでもないと様々な考え方が登場して、なかなか結論が出ないということはよくありますが、子供の頃からインターネットのある世代では、そういうしち面倒臭い「相談」や「対話」の体験が圧倒的に少なくなっているのではないでしょうか。
 困ったら「検索」し、適当な答えで自己解決してしまう。解決できればまだいい方ですが、いくら優しい言葉で親切に書かれていても、そこには体温や空気感といった身体感覚はありません。ただ脳内で処理しているだけです。

 人は人生を歩む中で数々の難題に出会います。一人で解決できずに誰かに頼らざるをえないことの方が多いのではないでしょうか。その「誰か」が今は変わってしまったのです。目の前の顔の見える人ではなく、目に見えないネット上の世界の「誰か」なのです。当たり前ですが、そこには正しいことも書かれています、きっと。しかし人を陥れ一儲けしようとする悪徳サイトもあります。目の前にいる人だって信頼できるかどうかの判断は難しいのに、見えないものは余計に難しいはずです。
 それでもとにかく簡単なのです。キーワード入れてポンと検索ボタンを押すだけで答えが出てくるのですから。しかも瞬時に。

 親のように迷ったり、あやふやに答えることはないのです。「さあどうかなあ、難しい問題だなあ」などと。

 検索するだけなら無料ですし、難題をぶつけても「お前はそんなことさえわからないのか。自分で考えろ」と叱られたりしません。関係のないことまで持ち出されて「だからお前はダメなんだよ」と否定されることもありません。
 しかしここが問題で、検索サイトは、叱られたり否定されることがない代わりに、一緒に悩んだり考えたりはしてくれません(現実の世界でもちゃんとそうしてくれる人は少ないのですが)。


 星の数ほどある人の悩み、それは親であろうと先生であろうとカウンセラーであろうと、その人にぴったりの正解はわからないのです。でも、わからないと言って対話を閉ざすのではなく、わからないことを一緒に抱え続けることが大切なのではないでしょうか。

 先日ラジオを聞いていて笑った話があります。女性3人で互いの悩み事で井戸端会議をしていると、途中で一人の男性が割り込んできました。その途端に話は終わってしまった、というのです。なぜなら、男性がその悩み事の「答え」を言ったのです。女性3人は怒りました。もうっ!、せっかくおしゃべりを楽しんでるのに~と。男性は親切に答えを教えてあげたのになぜ責められるのかと、シュンとしてしまったそうです。
 確かに男というのはそういう傾向があります。論理的思考を是とし、即断即決を求めるため、女性のように悩みさえネタにして会話を楽しむ余裕などないのでしょうね。やっぱり女性は素晴らしい。人生を楽しんでいます。

 生きていく上で、わからないこと解決できないことがあるのは当然のことで、それに時間がかかってしまうことは決して悪いことではなくて、それをないものにしてしまったり、効率だけ求めて拙速に一つの答えに結論付けてしまうことの方がいけないのだ、ということを知らなければいけませんね、世の男性は。何でもかんでもビジネスではないのですから。

 

 「安心して悩める」という状態が人間の健康な状態です。精神科医の泉谷閑示さんはそう言います。悩みのある状態、葛藤のある状態が生きることそのもので、それをないものにすることはできない。抑圧すると意識上はすっきりしたように感じても、身体はそれに反応し様々な症状を出すのです。だから「あるべき悩みを悩むようになる」のが本来の姿、健康な状態というわけです。
 また哲学者の土屋賢二さんは「何が重要なことであるかということを自分で決めることができる。あるいは、重要だと思うこともできるし、違う角度から見ることもできる」ということが、人間の自由にとって一番大切なことではないか」と言っています。
 自由って楽なようですが、本当の自由を得るというのは結構面倒くさい作業なのです。自分の頭で考え、判断が難しいと人に訊いたり、本を読んだり、悩み苦しみ、最終的に自分で決めるというように手間がかかるものなのです。
 簡単に答えを与えてしまうということは人からその自由を奪うことになり、根本的な解決にならない事が多いのです。
 「安心して悩める」状態というのは、悩むための十分な時間と、それを受け止め一緒に考えてくれる相手がいる。予め答があるのではなくて、そういう自由を与えられた状態ではないでしょうか。
 そんな中で「腑に落ちる」ものを探していくことが大切なのでしょう。