風流人日記

医王整体院 院長のblog

ちゃんと悩む

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 「ちゃんと悩む」って、変なタイトルですね。そうです、できたら悩みたくなんかないですよね。でも、どうすれば悩みがなくなるかではなく、どうすればちゃんと悩めるか、という話です。


 最近はインターネット上で「検索」という手段があまりにも広く深く浸透したため、「相談」という行為が少なくなってしまいました。「相談」という行為の中では、ああでもないこうでもないと様々な考え方が登場して、なかなか結論が出ないということはよくありますが、子供の頃からインターネットのある世代では、そういうしち面倒臭い「相談」や「対話」の体験が圧倒的に少なくなっているのではないでしょうか。
 困ったら「検索」し、適当な答えで自己解決してしまう。解決できればまだいい方ですが、いくら優しい言葉で親切に書かれていても、そこには体温や空気感といった身体感覚はありません。ただ脳内で処理しているだけです。

 人は人生を歩む中で数々の難題に出会います。一人で解決できずに誰かに頼らざるをえないことの方が多いのではないでしょうか。その「誰か」が今は変わってしまったのです。目の前の顔の見える人ではなく、目に見えないネット上の世界の「誰か」なのです。当たり前ですが、そこには正しいことも書かれています、きっと。しかし人を陥れ一儲けしようとする悪徳サイトもあります。目の前にいる人だって信頼できるかどうかの判断は難しいのに、見えないものは余計に難しいはずです。
 それでもとにかく簡単なのです。キーワード入れてポンと検索ボタンを押すだけで答えが出てくるのですから。しかも瞬時に。

 親のように迷ったり、あやふやに答えることはないのです。「さあどうかなあ、難しい問題だなあ」などと。

 検索するだけなら無料ですし、難題をぶつけても「お前はそんなことさえわからないのか。自分で考えろ」と叱られたりしません。関係のないことまで持ち出されて「だからお前はダメなんだよ」と否定されることもありません。
 しかしここが問題で、検索サイトは、叱られたり否定されることがない代わりに、一緒に悩んだり考えたりはしてくれません(現実の世界でもちゃんとそうしてくれる人は少ないのですが)。


 星の数ほどある人の悩み、それは親であろうと先生であろうとカウンセラーであろうと、その人にぴったりの正解はわからないのです。でも、わからないと言って対話を閉ざすのではなく、わからないことを一緒に抱え続けることが大切なのではないでしょうか。

 先日ラジオを聞いていて笑った話があります。女性3人で互いの悩み事で井戸端会議をしていると、途中で一人の男性が割り込んできました。その途端に話は終わってしまった、というのです。なぜなら、男性がその悩み事の「答え」を言ったのです。女性3人は怒りました。もうっ!、せっかくおしゃべりを楽しんでるのに~と。男性は親切に答えを教えてあげたのになぜ責められるのかと、シュンとしてしまったそうです。
 確かに男というのはそういう傾向があります。論理的思考を是とし、即断即決を求めるため、女性のように悩みさえネタにして会話を楽しむ余裕などないのでしょうね。やっぱり女性は素晴らしい。人生を楽しんでいます。

 生きていく上で、わからないこと解決できないことがあるのは当然のことで、それに時間がかかってしまうことは決して悪いことではなくて、それをないものにしてしまったり、効率だけ求めて拙速に一つの答えに結論付けてしまうことの方がいけないのだ、ということを知らなければいけませんね、世の男性は。何でもかんでもビジネスではないのですから。

 

 「安心して悩める」という状態が人間の健康な状態です。精神科医の泉谷閑示さんはそう言います。悩みのある状態、葛藤のある状態が生きることそのもので、それをないものにすることはできない。抑圧すると意識上はすっきりしたように感じても、身体はそれに反応し様々な症状を出すのです。だから「あるべき悩みを悩むようになる」のが本来の姿、健康な状態というわけです。
 また哲学者の土屋賢二さんは「何が重要なことであるかということを自分で決めることができる。あるいは、重要だと思うこともできるし、違う角度から見ることもできる」ということが、人間の自由にとって一番大切なことではないか」と言っています。
 自由って楽なようですが、本当の自由を得るというのは結構面倒くさい作業なのです。自分の頭で考え、判断が難しいと人に訊いたり、本を読んだり、悩み苦しみ、最終的に自分で決めるというように手間がかかるものなのです。
 簡単に答えを与えてしまうということは人からその自由を奪うことになり、根本的な解決にならない事が多いのです。
 「安心して悩める」状態というのは、悩むための十分な時間と、それを受け止め一緒に考えてくれる相手がいる。予め答があるのではなくて、そういう自由を与えられた状態ではないでしょうか。
 そんな中で「腑に落ちる」ものを探していくことが大切なのでしょう。

 

鳥になった沙羅ちゃん

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 平昌オリンピックもたけなわです。みなさん連日テレビにかぶりついて贔屓の選手を応援しておられることでしょう。

 私も何人か、注目している選手がいます。その共通点は「一生懸命」なところです。オリンピックに出るような選手ですから、誰もが一生懸命なことには違いないと思いますが、ひたむきに一生懸命練習して実力は十分あるのだけれどなぜか勝てない、という選手を特に応援したくなるのです。

 ですからそんな選手を見ていると、周りの過剰な期待が重圧になっているようで、期待するのは勝手だがもう少し静かに見守ってあげられないのかなどと勝手ながら思ってしまうのです。

 そんな重圧をはねのけてこそ一流の選手だ、と言うのは簡単ですが、考えてもみてください。まだ二十歳そこそこの選手ですよ。自分が同じ年頃の時どうだったかを思うと、私など恥ずかしくてとても言えません。いやいくつになっても人間なんて弱いものだと思います。

 

 前回のソチオリンピックで、多くの期待を集め、力はありながらもメダルを逃し涙を流した高梨沙羅さんは、次のオリンピックを目指して精神力を鍛えるために瞑想をするようになったと言っていました。瞑想は単に宗教的な儀式ではなく、いまや様々な分野の人たちが取り入れている心を整えるためにとても有効な手段だと思います。

 高梨沙羅さんは重圧に負けないようにと取り入れた瞑想をする中で、おそらく「あるがままでいい」ということに気づいたのではないかと私は思います。つまり、多くの人の期待に応えてなんとかメダルを取るためにと、自分の実力以上のものを出そうと力んでいたことに気づき、今の自分にできることを精一杯やるだけでいいのだという気持ちになれたのではないかと思うのです。むしろその方が自由に体が動いて、最大の力を発揮できるということに気づけば、飛ぶことだけに集中できます。それこそ瞑想が目指す自分の心と体を「いまここ」に一致させるということです。ちょっと大げさに言えば、空飛ぶ鳥になりきるということです。

 そいういう意味では、実力を発揮するために邪魔をしているのは、周囲の期待そのものではなく、それを感じる自分が「私」という意識を大きく膨らませすぎたということになります。

 

 昨年末に娘が初めての子を産み、しばらく赤ん坊と過ごす時間を得ました。孫は目に入れても痛くないほど可愛いと言いますが、観察好きの私は、この可愛さはどこから来るのだろうなどと考えながら、(目に入れてしまうと見えなくなるので)目には入れたりせず、生まれたての幼子と接していました。

 当たり前の話ですが、赤ちゃんは自分の実力以上のものを発揮しようなどとは考えません。背伸びをしない(手足を伸ばす運動はします)、力まない(ウンチの時はちょっと踏ん張った表情をします)、人目を気にしない、アルマーニも着ない、あるがままの姿だからこそ可愛いのです。もっとも、生後間もない赤ちゃんに、まだ「自分」という意識はないはずです。ということは、いかに「自分」という意識が虚で、その意識が過剰なほど可愛らしさを妨げるということになります。虚とまで言うと、立派な意識を持った大人の皆さんに叱られるかもしれませんが、「あるがまま」の姿こそ美しく、それが最高の力になるということではないでしょうか。 

 赤ちゃんは多分、わざわざ瞑想などしなくても、そんな状態でいられるのでしょう。いいなあ。

わかりやす〜い

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 ある朝いつもと同じ道を散歩していました。少しカーブした道の角っこを曲がった瞬間でした。突然視界が開けて道の先まで見通せるようになったことに不思議な感覚を覚えて、凄い発見をしたような気分になったのです。考えてみればそんなことは当たり前のことなのですが、角を曲がれば、歩みを進めれば、それまで見えなかったものが見えるようになるということに、なぜかその日は小さな感動を味わったのでした。

 

 近頃ちょっと気になることがずっと頭の片隅にあります。若い人が使うのをよく耳にする「わかりやす~い」という言葉です。「わかりやすい」ことを決して悪いと言っているのではありません。わけのわからないことより、わかりやすいほうがスッキリするし、精神衛生上も良いと思います。

 しかし、世の中わかりやすいことばかりではありません。先のことは誰にもわからないし、今ここで起こっている出来事でも、簡単にわかったり理解できないことのほうが多いと思います。

 だからこそ「わかりやすい」ことを誰もが好み、賞賛するのでしょう。

「わかりやす~い」という話し手を称える言葉の裏にはそういう真実があるのだと思いますが、かといって「わかりにくい」ことを避けてばかりしていられません。

 どうも「わかりやす~い」が幅を利かせすぎて、苦労してわかりあうことや、わからないことに耐える力がどんどん失われていくように思うのです。

 昨年話題になった「排除」という行為もそんなところから生まれるのではないでしょうか。

 

 今の時代、知らないことでも初めての道でも、検索するとたちまち答えを教えてくれるスマートホンという便利なツールが、わからないことをわからないまま生きていくための豊富な経験と智慧を持つ年長者や宗教に取って代わり、主役の座を奪いつつあります。 

 つまり、人に尋ねたり図書館に行って調べたりなどという面倒なことはしなくても、スマホさえ持っていれば何でもわかるし何でもできるという錯覚に陥りやすくなっています。

 人と簡単に繋がれる、何でもすぐに答えてくれるスマホを神のごとく崇める気持ちは、結論のないことや答えのないものを存在しないことにしたい「わかりやす~い」と同じ心の表れではないでしょうか?

 そんな若いスマホ世代がつまずくのは、他者との人間関係です。スマホは相手が何を考えているかということまで教えてくれませんし、相手との価値観の違いを埋めてはくれません。こればかりは、少しは嫌な目をしたり恥をかいたりといった経験を積まなければなりません。

 人と人は、なかなかわかり合えないからこそ、わかり合えた時の喜びは大きいのだと思います。本当のわからないことがわかる喜びは、「わからない」状態に耐える覚悟がなければ得られるものではない気がします。

 旅行に行く時に事前に周到な下調べをして出かけるよりも、予備知識のない白紙の状態で偶然出会った景色の方が感動することが多いのも、そういうことではないでしょうか。わからないことがあってはいけない、などと思う必要はないのです。本当は「わかりにくい」ことのほうに真実が隠されている気がします。

 たぶん人生という旅は、その真実を追求し続けることなのでしょう。自分の足で歩き自分の目で確かめなければ、気づかないことばかりです。

 

 さあ今年はどんな年になるでしょうか?一歩ずつ歩みを進めながら気づいていこうと思います。そして、わからなことをわからないまま、複雑なものを単純化しないで複雑なまま抱え続ける力を、すこしでも鍛えたいと思います。

川柳のチカラ

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 川柳に明け川柳に暮れる一年でした。なんて言うと、一角の川柳作家のように聞こえてしまいますが、もちろんそんなことはありません。毎週土曜日の早朝ラジオで放送される「川柳で生き方再発見/近藤流健康川柳道場 しあわせの五・七・五」を一年通して欠かさず聴いたというだけの話です。いやしかし聞くだけでも健康になれるという大変ありがたいこの番組は、今や私にとってなくてはならない存在となっているのです。
 どこにそんな早起きして聞くほどの値打ちがあるのかというと、やはり川柳のユーモア精神だと思うのです。いつの時代も生きていれば喜びだけでなく悲しみや苦しみもあるのが当然の人生ですが、どうも今の世の中はネガティブな出来事や感情を笑い飛ばしてしまうほどの余裕がない、とても息苦しい社会だと感じている人が多いのではないでしょうか。
 川柳は俳句のような堅苦しさがありません。この番組の師範、全日本川柳協会顧問の近藤勝重さんによると、俳句は「人生と季節」川柳は「人間と生活」を詠むのだそうです。これだけでも川柳がいかに日常生活に近いところにあるかということがわかります。そしてその日常の隙間からこぼれ落ちる可笑しみを拾うのが川柳ということですから、面白くないはずがありません。
 毎週番組のリスナーから送られてくる優秀な作品を聴くと、使い方一つで幸せな気分にもなれるし、反対に他人も自分も傷つけ不幸にしてしまうこともある「言葉の重要性」を今更ながら考えさせられます。
 近藤師範はこんなこともおっしゃっていました。近藤さんは長いこと早稲田大学で文章論を教えておられるそうですが、この10年ほどで学生たちの表現力は恐ろしいまでに劣化したと。その原因のひとつはメールやラインといった便利で簡単なコミュニケーションツールで、考える前に文字を送ってしまっているというのです。人に伝わる言葉を生むには、心で感じることと頭で考えることの双方を行き来する必要がある。心で感じたそれだけをメールしてしまう癖がつくと、考えを深める時間が持てなくなるとおっしゃいます。
 わからないことがあると、誰にどんなふうに尋ねるのがいいかなどと考えることもなく、すぐにネットで検索するGoogle依存も同じですね。苦労せず得た知識は右から左に通り抜けてしまいます。
 時間をかけて醸成された言葉の重みは、川柳のように感じたこと気づいたことを一つのルールのもと、五感と頭を使って作り上げる創造的な行為から生まれるものなのでしょう。
 一句ひねると言いますが、その「ひねる」というのは、あれこれ工夫して考えるということだそうです。それは感覚をつかさどる右脳と、論理をつかさどる左脳を行ったり来たりすることなんだそうです。その左右の脳の連動が、まさに脳トレになり、ボケ防止になると脳科学者も言っています。
 また川柳の滑稽さは笑いを誘います。この笑いが免疫力を高めて健康をもたらす効果は、近年医学的にも実証されています。


 どうすれば心身ともに健康でいられるか幸せに生きられるかを川柳を通じて追及するこの番組を聴きながら、来年も笑って健康でいたいと思っています。
 年の初めの「今年こそ一句詠むぞ」という目標は儚い夢と終わりましたが、毎週う~んと唸ったり笑わずにいられない秀作を聴いているだけで幸せな気持ちにさせてもらった一年でした。
 

 番組では毎週優秀作品を選んでいますが、この一年で私自身が深く納得し、笑った特選句を最後にご紹介します。

MBS「しあわせの五・七・五」ホームページより拝借しました)


 ✎鏡より 同い年見て老いを知る
 ✎孫の来る前日多めにストレッチ
 ✎健康じゃないとできない健康法
 ✎また一つ持病が増えて仲間増え
 ✎年忘れ夫も忘れ忘年会
 ✎悩んでも悩まなくても朝はくる

 

 

「観察」から見えてくるもの

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 森友学園問題で国会に証人喚問に立ったあの籠池さんが、「事実は小説よりも奇なり」と薄笑いを浮かべながら発言したときの様子が、なぜかとても印象に残っています。あの言葉の奥にはとても意味深いことが隠されていたと思いますが、森友問題はここではさて置くとして、確かにどんな奇想天外な小説を作ったとしても、それ以上に想定外の事が起こるのが現実です。
 人生はそんな考えもつかない偶然の積み重ねかもしれませんね。

 仏教因果律に立ちますから、偶然はなく全ては原因と結果があるとしますが、我々はそのすべての関係性を知ることができませんから、とんでもないことが起きるとどうしても偶然のように思ってしまいます。その偶然は時に残酷であり冷淡でもあります。神も仏もないのかと嘆きたくなることがあるかもしれません。
 人はそんな不幸を味わいたくないから、幸福へのシナリオを描き、一路ゴールを目指します。しかし台本があるとどうしてもそれに頼ってしまいます。
 頼るというよりも、既定路線通りに進むための台本ですから、そのとおりにするのは当然です。

 でもそれは幸福への最短距離かもしれませんが、それ以上のなにも生まれないし、生まれたとしてもそれに気づきにくいのではないでしょうか。先を急ぐあまり、刻々と変わる「いま」を感じている暇はないのです。台本にはない、今ここでしか観察できないことを見落としてしまいます。
 まあ実際には台本通りにいくことのほうが少ないのですが、、、。

 また今ここを見つめることができたとしても、われわれは本当の現実の姿を見ているとはいえないことが多いと思います。常に自分の偏見や思い込みというフィルターを通して見てしまう。そのフィルターの一つが台本という未来図や予定表かもしれません。こうなるはずだとか、こうなるべきだとか。

 私が「観察」ということに注目するようになったのも、実は台本にはなかった偶然です。でもこれも「いまここ」を大切にしたい思いから日々問い続けているなかでの出会いという意味では、必然の気づきかもしれません。

 観察は過去や未来ではない、いまここで起きていることに何も判断を加えずに、耳を澄まし目を見開きすべての感覚器を通して感じることです。辞書を引くと「物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること」、仏教語としては「智慧によって対象を正しく見極めること」と書かれています。 そういう意味では観察するという行為は「瞑想」に似ていますね。  いまここを注意深く観察することによって、事前情報や台本に書いてあることよりもっと素晴らしい現実を知ることができるかもしれません。偶然に見える現実は本当に奇妙なものですが、曇りのない目で見ると意外な気づきや発見があります。

 普段から気功や瞑想を実践する中で、雑念が邪魔をしてなかなか集中できないと嘆く方も多いと思いますが、雑念を取り払うよりも、目の前で起きていることをひたすら注意深く観察するというイメージに切り替えると、うまくいくかもしれません。

 また私たちは無意識のうちにいつものようにいつものやり方で行動しますが、その行動パターンや癖からから脱出したいと思うときにも、「観察」はとても有効だと思います。
 「観察」、それは普段私たちが見落としている大切なことを気づかせてくれる、とても奥の深い行為だと思います。

 さあ、「観察」で、未知の世界への旅に出かけませんか。