風流人日記

医王整体院 院長のblog

その日出会う天使が一人いる

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 どこで聞いたか知ったかはもう忘れてしまったが忘れられない言葉がある。

 「いつでも、どこでも、その日に出会う天使が一人はいる。ただ、それに気がつかないだけで」

 作家の中島らもさんのこの言葉を聞いて以来、日々の出会いや何気ない会話の中に天使を探していることがある。あるいは、その時はそんなことさえ忘れていても、後で振り返って、「ああ、あの時のあの人がぼくにとってのその日の天使だったんだ」と気づくことが何度となくあった。

 残念ながら、いまのところ毎日とはいかないが、、、。

 それでもそれは、人生捨てたものではない、と思える瞬間であることに違いない。

  辛く悲しいことの多い人生も、こんなふうに見たり考えたりすると、まんざらでもないと思えるのだから、ものは見方によって如何にでも見えるということだ。

 このところ相次ぐ大臣クラスの人たちの耳を疑うような不用意な発言に心が傷んだり、十分な議論もせず数の力で押し通す強引で独善的な政治に嫌気が差し、気分も落ち込み気味だけれど、そんな時でも前川喜平前文科事務次官のような誠実で勇気ある人がマスコミ報道に現れたりすると、ほっとする。そして少しは気分も晴れて、眉間の皺も緩む気がする。

 無関心でいることが一番良くないと思っているから、嫌なことも聞いたり悲しくなるようなニュースも見たりはするが、進んで心の清らかな人を探して清々しい気分を味合わなければ、人の気持ちはどんどん萎えていく。

 テレビに出る立派な肩書を持った人でなくても、目を開いて探せばもっと身近なところにも天使はいるのだと思う。それは電車の中でお年寄りに席を譲る人かもしれない。道端ですれ違う花や蝶かもしれない。小鳥や木や犬や風や雪の姿をして現れるかもしれない。

 前川さんが天使に見えるか、はたまた地獄からの使者に見えるかは、それぞれの立場によって変わるのだろうけれど、人は自分の都合で自分が見たいものだけを見ていることが多い。

 天使というのはそんな身勝手な見方を超えた曇りのない心に現れる気がする。

昔も今も人はつぶやくーーーツイッターの起源は奈良時代?

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 4月1日はエイプリルフールです。若い頃はどんな嘘で皆を驚かせようかといろいろ悪知恵を働かせたものですが、最近は普段から嘘かホントかわからないようなことばかり言っていて誰も本気にしませんから、エープリルフールだといって特別なエネルギーは使わないようになりました。
 ところで皆さんツイッターをしておられるでしょうか。やっていないという方でも最近はトランプ大統領のびっくりするようなツイートがテレビでも報じられたりして、その存在はご存知だと思います。

 4月1日の東京新聞にこんな記事が載っていました。
 大阪府の北部で奈良時代のものとみられる木簡(文字などを記した木の札)が大量に出土したそうです。そこには当時の役人の愚痴など書かれていて、すべて無記名で140字以内に収められていたというのですから、これはまるで今のツイッターです。
 驚くことに、そのつぶやきの中には「異国からの流入者を制限しろ。壁を作って流入を防げ。費用はやつらに払わせろ」と、どこかの大統領の発言と同じようなことが書かれているのです。そして「そのとおりだ。日本第一主義でいくべきだ」と共感するつぶやきがあったり、「上司の顔色をうかがい忖度するやつが出世する」「忖度は役人の基本」「上司の意向に従ったつもりが逆にはしごを外された」など、これホントに昔の話?と疑いたくなるような話まで出てきます。

 人は誰もが自分の中にくすぶっているわだかまりを何かの形で外に出したいのでしょうね。木簡とインターネットという形の違いこそあれ、人間の中身や本質は何も変わっていないんだなあと、妙に感心しました。変わったのは何もが便利になっただけで、その分だけ感情の発露がより容易になり、より過激になってしまったという気がします。
 ただ、愚痴もつぶやきも行き過ぎてはいけません。当時の木簡の利用規約にも「他者への中傷禁止」ということが明記されていたといいますから、いつの時代も人の感情は暴走しやすく、他者を傷つけやすいのでしょう。

 最近は「ポスト真実」などという新しい言葉を耳にします。「客観的な事実が重視されず、感情的な訴えが政治的に影響を与える状況」とのことですが、嘘と真実を見分けるのが難しい世の中になりました。考えることを諦めず、様々な事象を冷静に判断したいと思います。


 でもこの記事、まさかエープリルフールじゃないでしょうね(>_<)*

犬に教えられたこと

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 今や空前の猫ブームですが、流行に左右されない(天の邪鬼とも鈍感とも言いますが)私は、あえて犬の話を書きます。

 愛犬が星に帰ってもうすぐ丸五年になります。これまであまりそのことを語ろうとも書こうともしませんでしたが、なぜかこの頃、ゆっくり振り返ってみたくなることがあります。少し気持ちの整理が付いたのかもしれません。  思い出すたび涙は出ますが、、、。


 彼女の名はクリスと言います。間もなく14歳を迎える寸前で息を引き取りました。人間でいうと90歳くらいになるそうですから、かなりの長生きでした。
 何を言っても親バカ、いや愛犬自慢に聞こえるでしょうが、彼女はいいヤツでした。

 人間という生き物は偉そうに他の生き物を支配し、自分たちが世界で一番、なによりも上の存在だと思っています。でも、犬だけでなく、いろんな生き物を飼ってみると気づくことがたくさんあります。
 犬を観察していると、人間の傲慢さや愚かさがよくわかります。偉そうなこと言ってるけど、辛いことがあったりすると人間は犬の存在に癒しや救いを求め、結局犬に助けられているのです。

 どんな時でも犬は淡々としています。しかし、人間が泣きついてきた時、犬にはその苦しさや悲しみがわかるのでしょう。黙って聴いてくれます。  こんなこと余程できた人間でないとできません。でも犬は時と場合や自分の都合に関わらず、いつでも(寝ているときでもその寝姿で)人の苦しみを受けとめてくれます。常に恬淡虚無の姿勢でいるからできるのでしょう。

 おそらく犬は自分という自覚が希薄なんだと思います。これは犬をバカにしているのではありません。自分に対する忠告です。
 人間は我が我がと自分を一番に考え過ぎます。それは産まれてしばらくして物心が付き自我が芽生える頃から始まるようです。そしてそれと同時に苦を感じ始めます。  つまり苦の根源は自分ということになります。だから自我意識の薄い犬は、苦を感じにくいのでしょう。
 喜びを感じるのはご飯を食べる時、出かけていた家族が帰ってきた時、皆で一緒に出かける時、それくらいかもしれません。でもよく考えてみると、それ以上にどんな喜びがあるでしょう。別に社長や大臣にならなくても、金持ちの家庭に産まれなくても、家族が仲良く暮らす喜びは味わうことができます。持ち物が少なければ苦も少なくて済むのでしょうか?

 また恵まれない環境で暮らする犬もいるでしょうが、その犬が不運を感じ嘆いているかと言えば、そうではない気がします。それは他と比べないからではないでしょうか。他所の犬は温かい家の中でいい餌をもらって羨ましいとは考えないからだと思います。自分の与えられた環境に文句を言わないのは情報がないからとも言えますが、「知足」=足るを知るには、知らないことが多いほうがいいのかもしれません。
 そして人にできる大切なことは、自己を薄め、生かされていることに感謝することでしょうか。
 「ただ生きている」だけで人を癒すことができる犬の存在の素晴らしさに、月日が経って改めて感動します。

3月31日は彼女の命日です。

温もりの記憶

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 アラジンのブルーフレーム石油ストーブを使い始めて17年になる。  あれは20世紀最後の年だった。当時2000年になるとコンピューターが誤作動を起こす可能性があるという「2000年問題」が巷を駆け巡った。  家の暖房器具は大丈夫じゃないかという私の言葉など耳に届かず、人一倍不安を感じやすい性格の母は、備えあれば憂いなしと、いち早く石油ストーブを手に入れた。ちょっとおしゃれなアラジンにしたのはたぶん兄のアドバイスによるものだったと思う。
 そして迎えた2000年1月1日。懸念されていた事態は起こらなかった。母は良かったと胸を撫で下ろし、まもなくアラジンは手付かずのまま実家の納屋へと仕舞い込まれる。

 2000年危機などどこ吹く風、その後もしばらくエアコンやガスファンヒーターを使い続けていた私だったが、しかしその機械的で無味乾燥な生暖かい風には以前から不快さを感じていた。

 ある時ふと実家の納屋に眠っているアラジンを思い出した。

 使わないなら貸して頂戴といってアラジンが我が家に来てからは、もう初めから自分のもののように使っている。当節の電気製品とは違ってリモコンのボタンひとつでは動かないが、毎朝の儀式のようにマッチで芯に火を点けるところなど手間のかかるのが人間的でいい。コンピューター制御の風情のない風ではなく、炎でやわらかく暖められた空気が対流し、じんわりと部屋全体に拡がっていく。


 静かに揺らめく青い炎を眺めながらその暖かさに触れているとき、ささやかな幸せを感じるのだ。直球ではない包み込むような暖かさは、温泉にでも浸かっているように体の芯まで滲みる。それは人のぬくもりにも感じられる。  マッチ売りの少女が一本のマッチの炎で一瞬感じた暖かさが、ストーブや七面鳥のごちそうなどクリスマスの家庭の光景だったように、私もこのアラジン石油ストーブの暖かさから昔の家族団らんを思い出す。


 物心ついた60年ほど前の日本の家庭にはまだ火鉢があった。薬缶を乗せた火鉢を皆で囲ったり、金網を乗せてのんびりと餅が焼けるのを待つなど、なんて長閑な時間だろうか。かつては家族と過ごすそんな時間が確かにあった。よく親に叱られた子供だったが、それでも火鉢の周りに座ってその暖かさを感じているときは、誰もが優しかった。柔らかい炎の暖かさが人の心までも穏やかにしていた気がする。

 冬の寒いある日、薬缶を乗せたアラジンに手をかざしてお湯が湧く音を聞いていると、ゆらゆら揺れる暖かい空気の向こうに遠い昔の記憶が蘇ってきた。  難しいコンピューター問題ともモデルチェンジとも縁のない旧式石油ストーブは、変わらない姿のまま今日も暖と幸せを届けてくれる。

「こころとカラダにちょっといい話」100回目を迎えて

 このブログにアップする記事の中から抜粋した「こころとカラダにちょっといい話」というタイトルの小冊子を院内に置いて、来院される皆様に読んでいただいています。

 それがこの度100回目を迎えることになりましたので、お礼を兼ねて記念発行しました。

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 ひいき目に見ても、この世の中はいいことばかりではありません。これもその人その人の受けとめ方次第ですが、どちらかというと、苦しいこと辛いことの方が多いようにも思います。  でも、それだけでもないことも確かです。数字になど表せないと思いますが、10のうち一つか二つくらいはうれしいこと、楽しいこと、ああ生きていてよかったと思えることがあるような気がします(えっ、私はもっとありますよって? いいですねえ)。

 それは、友人や家族のちょっとしたひと言だったり、美しい風景に出会った時の感動や本で読んだ心に響く話だったり、見知らぬ人から受けた厚意であったり、、、。  そんな日常の出来事から得られる出会いや言葉や心を動かされる振る舞いが、立ち直るきっかけになったりすることがあります。

 それを糸口にいつもと違った考え方ができると、抱えている難題が違った見え方をしたり、世の中まんざらでもないな、と思えたりします。

 そこにたどり着くには、逃げないことが大切なようです。前向きで楽天的な考え方をするということは、決して前だけを見、苦しいことに背を向けて、楽な方へ逃げるのではないのだと思います。しっかり問題と向き合い、自分を見つめ直すとことから、自分の思考パターンやクセが見えてきて、新たな別の見方が浮かび上がってくるのです。

  辛くても、逃げずに苦しみと向き合い乗り越えなければ「楽」は味わえないのかもしれません。  現状否定という抵抗をやめたとき、自分(我)という強固な殻を破った時に、見えていなかった道に光が当たる、と言えるのかもしれません。

 

 ここに書いたことは、私がアトピーという苦い、いや痒い経験を通して感じたことや知ったこと、また日常のいろんな出会いの中で、友人からのアドバイス、先人たちの言葉、多くの本、患者さんとの会話などから拾い集めたものです。

 なかでも、患者さんが苦境から立ち直っていかれる姿からは、どんな立派な書物箴言よりも、私に大きな感動とヒントを与えていただきました。

 自分自身と向き合い、嘆き、葛藤し、もがき苦しみながら、果てしなく遠く思える出口を探す。「三歩進んで二歩下がる」という唄の文句がありましたが、それはまだよいほうで、ようやく一歩でも前に進めたかと思うとまた後退して元に戻ったりという、行ったり来たりの苦しい道のりを、こちらがなにも大したことをできなくても、自分の脚で 地道に歩んで行かれる姿に、私のほうが励まされ勇気づけられることがたくさんありました。

 人間は薄い氷のようにモロい存在でもあるけれど、奥深くには限りない可能性を秘めているんだなあと、改めて思うのです。 人間ってすばらしい!

 そんな私の感動体験が、みなさんにとっても、少しでも苦しみを乗り越えるきっかけ、楽を見出すヒントになればと願っています。

 

 お陰様でこの「こころとカラダにちょっといいお話」も今回で100回目を迎えました。数だけ見れば自分でも驚くほど長続きしたなと思いますが、根気もなくたいして文才もない私がここまで続けてこられたのは、様々なことを皆さんの体験から教えていただいたお蔭だと感謝しています。

 ブータンでは、自分の大切な人の幸せを含めて、初めて自分の幸せと捉えるそうです。

 一応これで100回目の区切りとさせていただきますが、まだまだ学びの道は続きます。これを最終回とせず100回目とし、こころを揺さぶられたり感動したことがあれば、その都度また書きたいと思っています。  これまで読んでいただいて、ありがとうございました。