風流人日記

医王整体院 院長のblog

「聴く」ことから始まる

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 これで「聴く」というキーワードをテーマに書くのは四度目です。様々なカラダと心にまつわるテーマを取り上げた中で、この「聴く」ことを何度も書くのは、やはり人間同士が生きていく上で話すこと以上に重要なことだと考えているからです。


 誰にも不平不満はあります。それを溜め込んで一人で苦しまないためには、誰かに聞いてもらうことが大切です。その機会がなければ、いつか不満はなんらかの不幸な形で爆発してしまいます。といっても、いくら自分はこんな不満があると相談に乗ってもらっても、すぐによい答えを得られるとは限りません。それでも自分の中に溜まっていた不満や怒り、うまく言い表せないモヤモヤとした気持ちが、誰かにただ静かに聴いてもらうことによって、少しは落ち着いていくということは以前にも書きました。

 一人ひとりの悩み以上に、民族間の紛争、国と国との難しい問題などは、ちょっと話し合ったところでお互いが納得できる解決策が出ることはないでしょう。
 しかし、肌の色が違う、信仰するものが違うというだけで、彼らとは話し合いにもならない、考え方が違う、言ったところで分かるヤツじゃないなどとレッテルを貼ってしまって、相手の言い分を聴くこともせず力で従わせようとしたり、あるいは無視を続けていては、いつまでも対立関係のままです。国際的な大きな問題も、まずは隣人の話を聴くところから始まるのではないでしょうか。いや、それをしてこなかったことが結果として取り返しのつかない事態を招くのではないでしょうか。  そんなことを、先日パリで起きた悼ましい事件に接して思いました。この問題は私が考えるほど単純な問題ではないことは重々承知していますが、それだからこそ当面の対策だけに留まらず、「聴く」という原点に帰って考えなければならないのではないかと思ったのです。

 話せば分かる?そんな考えは甘い、きれいごとに過ぎない、またお前は人殺しの話でも聴くのかと言われるるかもしれません。たしかに今テロ組織に対話を求めても拒否されるでしょうが、私が言いたいのは、人殺しという過激な行動に至らざるを得ないほど彼らを追い詰めたのが対話の窓を開かない態度、つまり差別や貧困の放置ではないかということです。だからこれは一方だけの問題ではありません。話すということも聴くという行為も相手があってのことです。対話を始めるにはまず相手の存在を分け隔てなく認めることが大切です。「話し合える相手ではない」と決めつけてしまっては何も始まらないどころか、それこそが憎しみを深める負の力になります。

 銃で襲撃されたパリのカフェはオーナーがユダヤ人で奥さんはイスラム教徒でした。いろんな社会階層、人種、宗教の人が集うその店は、フランスの共生社会を象徴していてとても居心地がよかったそうです。妻まで失ったそのオーナーは「我々は他者なしでは生きられない。さまざまな人種、宗教がミックスすることで文化が生まれる」と言ったそうです。その店に集まる人たちは、お互いの違いを批判することなく興味を持ち尊重することによって、自分にない様々なことを相手から吸収し、新しい価値観を生みだしていたのでしょう。そんな受容的な空気が流れる店だったのだと思います。  違いを超え共感を持って受け入れる聞き方こそが「聴く」ということです。ただ一方的に自分の主張を訴えられては誰でも拒絶感を持ちます。反対に、相手の話を先入観を捨ててひたすら「聴く」という態度は多くの果実を生み出します。

 パリの人たちの悲痛な叫びばかりが報道される中、私自身どれほどシリアの人たちや各地の難民のことを分かっているのかと問われると、まことに心もとないのですが、少なくとも思いを致すこと(これも聴くことの一つでしょう)だけは忘れたくないと思っています。遠い国のこと以前に、震災のあった東北や基地問題に揺れる沖縄の人々の声なども。

 今回は少し固い話で肩が凝りそうですね。少し体がほぐれるように、最後に私が好きだったボヤキ漫才師、人生幸朗師匠のこの言葉で締めくくりたいと思います。 「まあ皆さん、聞いてください!」。

※これまで「聴く」というテーマで書いた記事もご覧ください。

カラダで聴く、カラダを聴く

痛みを聴く

ゆっくり書くという行為

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 脚本家の山田太一さんが若者たちのスマートフォンの指使いの速さについて言及されているのを新聞で読みました。「自分の内側にある本当の言葉はあんなスピードでは出てこないはずだ、ありきたりの単語でしか表わしていないのではないか」そういう主旨のことが書かれていて、たしかにそうだなと思いました。
 私も、自分のスマートフォンを操る指の遅さは棚に上げたまま、なにか若い人たちのあの指の動きに驚きと同時に違和感を感じていました。それは日々鍛え上げた訓練の成果ともいえるし、なんら否定するものでもないのですが、自分もそうなりたいとは思わないのです。若者たちからすれば、還暦過ぎのおっちゃんにはやりたくても真似できるはずないと言われるかもしれませんが、、、。


 実は、若者たちのような芸術的な指の動きは無理だとしても、なんとかもう少し簡単に文字を入力できたらと思いいろいろ探してみたところ、手書き入力ソフト(mazec)というものを見つけました。実際に紙に字を書くのと同じように、スマートフォンのタッチパネルに指やタッチペンで文字をなぞると、それがちゃんと活字に変換されるのです。画数の多い複雑な漢字はひらがなで書くと、それもちゃんと漢字に変換されます。一番最初に使った時はちょっと感動的でした。いまや、あんなことができれば、こんなものがあればと思うことは、ほとんど製品化されていることにも驚きを感じました。日本語は世界でも独特の言語です。こんなソフトを開発しようと考えるのも、やはり日本人特有のきめのこまかい発想でしょうね。

 その手書き入力ソフトを入れたのは、ただ便利で使いやすいというよりも、普段ノートにむかって頭に浮かんだことを筆を動かして書き、また少し行き詰まると筆を持ったまま考えるという日常のスタイルが、スマートフォンでどこででも可能だということに価値を感じたのです。私が普段ものを書くのは、なにかを記録しておくことと同時に、静かに心を落ち着けて考えをまとめる意味合いが大きい気がします。だからただ機械的に文字を打つのではなく、アタマで考えることと書く指の動きを一致させることを大事にしたいのです。
 コンピュータは便利なのですが、よほど慣れないとキーボードやボタンを操作することに気が散って考えることが止まってしまうことがあります。それを解消してくれるのがこのソフトです。じっくり考えながら書く、あるいは考えることと書くことのスピードが一致する、そういう人間時間を大切にした優れたソフトだと思います。

 何もかもがスピードと効率を重視した社会になりましたが、人にはそれぞれ自分に合うリズムや速さがあると思います。ですから、そんな社会のペースに合わせてばかりいては疲れてしまいますし、自分を見失うことになります。
 スピードと効率を考えてなにかに突き進んだ結果、振り返ると何も残らなかったという経験はないでしょうか? 結果がすべてではありません。その過程の一瞬一瞬を大事にすることが結果的にいいものが生まれることに繋がるのだと思います。


 古代の人の書くという行為は、ものを引っ掻いたり何かを彫って跡をつけるということだったと聞きました。時間のかかる作業です。しかしひたすらその作業に没頭することで自分と向き合い、ゆっくり流れる時間の中で自分の内面をそういう形で丁寧に表現していたのでしょう。
科学技術の進歩はありがたいことです。しかし、そのありがたさに甘えず、時には古代の人のように、自分を見失わないよう自分の時間をゆっくり歩く時間を持ちたいと思います。

 もうひとつこの手書き入力ソフトの面白いところは、活字に変換せずに手書きした文字のまま残すこともできるのです。このキーを打つと必ずこの文字が出るという規則的なことだけでなく、これだと同じ一文字にもその人の人柄が表れます。まあ字がヘタクソなのは露呈しますが、それも個性の一つです。

 スマホの入力にお困りの方、達筆自慢をしたい方もぜひお試しください。

腰痛治療革命 〜振り出しに戻る〜

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 去る7月12日にNHKスペシャルという番組で「腰痛・治療革命 ~見えてきた痛みのメカニズム~」が放送されました。ご覧になった方も多いと思いますが、これまで聞いてきたこととだいぶ変わったなあという感想を持たれたかもしれません。内容に関してはご覧になったとおりで、ここで詳しく書くことは避けますが、私なりの感想を書いてみたいと思います。

 そもそも、大昔からあった腰痛という「痛み」が、なぜいまや日本人の4人に一人とまでいわれるような「病気」になってしまったのか。そのあたりから考えてみます。

 昔はいったいどれくらい腰の痛みを訴える人がいたかは分かりませんが、おそらく現在と同じくらいの率で多くの人が腰痛を感じていたのではないでしょうか。考えてみても、昔は今のように交通機関も発達していませんし、よく歩きました。ボタン一つでお湯を張れるお風呂や洗濯機も冷蔵庫もありませんから、当然なにをするにも目一杯カラダを使って労働をしていました。重い荷物を肩に担いだり、腰に負担のかかることは日常茶飯事だったでしょう。それでも、もちろん医療が発達していなかったこともあるでしょうが、そんな腰の痛みは、素直にただの「疲れ」として、誰かに腰を揉んでもらったり、たまには温泉にゆっくり浸かってカラダを休めて凌いでいたのではないでしょうか。そんな常に腰痛を感じていた昔の人たちが、なにも治療をせずこじらせて歩けなくなったなどという話は聞いたことがありませんし、そもそも腰痛を病気だとは誰も考えていなかったと思います。それが、医学が発達するにつれ、次第に「病気化」していったのです。

 腰椎椎間板の突出が坐骨神経痛を引き起こすということが最初にいわれたのは明治44年です。いわゆる椎間板ヘルニアですね。レントゲン氏がエックス線を発明し、身体の内部の様子を知ることができるようになって数年後のことです。

 エックス線の発明によって、それまで分からなかった原因不明の病いが解明されることもたくさんあったでしょうが、腰痛に関しては、これが裏目に出てしまったようです。つまり、本当はそれが痛みの原因でなくても、エックス線で本来の構造(形状)とかけ離れたものが写ると、それを痛みの原因だと考えてしまったのです。その後、ヘルニアを取り除く手術をしても良くならないケースが多発したためその理論は疑問視され、厳密な検証の結果、痛みの生理学が示した結論はそれは痛みの原因ではなかったということですが、それでもいったん医学の常識として定着したものは、なかなか簡単には覆らないようです。      

 番組でも触れていましたが、欧米ではもう20年前から従来の治療法を見直す動きがあり、国を挙げて経済的損失が多大な腰痛を撲滅するキャンペーンが行われたりもしました。それを思うとここへ来てようやく日本も追いついたかという感は否めませんが、いずれにしても、慢性痛で苦しむ多くの人のことを考えると、今からでも間違った治療法が改められ、回復への道がはっきりしてきたことは何よりも喜ばしいことです。

 過去にこのブログで何度も書いていますが、腰痛はそんなに難しく考える必要のない昔からあるカラダのごく自然な反応です。危険な兆候(麻痺や排泄コントロール不全)がなければ、痛みがあっても必要以上に怖がらず、少し休んだらゆっくりでもカラダを動かすことが大切です。

 昔と今で違うのは、昔は体の使い過ぎから起こる痛み、つまり「休め」というサインです。かたや現代の痛みは逆にカラダを使わなさすぎ、または同じ姿勢・同じ動作ばかり繰り返すことによって起こる腰痛がほとんどです。これは昔の「休め」のサインと反対の「もっと動かせ」というサインと考えられるでしょう。

 貝原益軒は「養生訓」の中で言いました。

「心は常に楽しむべし 苦しむべからず。身は常に労すべし やすめ過ごすべからず」

 益軒さんの時代以上に、現代社会は何かと心苦しむことは多くても、身体は苦しむほど動かすことはほとんどありませんね。  

 さあ、歩きましょう! 動きましょう!

虫食いだらけの古新聞

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 この4月から購読新聞を変えました。そうすると急に切り抜きが増えました。これまでも気になる人のことや言葉を見つけると備忘録にメモしたり切り抜いて貼付けたりしていましたが、長く同じ新聞を読み続けていると次第にその数が減っていきました。

 やはり新聞社というのはそれぞれに主義主張があって、それに基づいて記事を編集したり、コメンテーターやコラムニストを選んで紙面を構成するわけですが、それだけに読む側は一紙に固定してしまうと、良い悪いは別にしてどうしても偏った考えに触れ続けることになります。

 今日、新しく読み始めた新聞から切り抜いたのは数理学者ゲーデルの言葉で、「一つの系の中には必ず自己矛盾の要素があり、その系の中にいる限り、その矛盾はわからない」というものです。

 長い間同じ行動を続けていると、思考までもがルーティン化してしまうようです。そのことに気づくためにもこのコラムに書かれているように、ときどき、日常から離れて自分を取り巻く環境を客観的に見ることが大切なのでしょう。その一つとして、購読新聞を変えてみることも簡単で有効な手段かもしれないですね。

 実は新聞を変えた訳は、最近の新聞は読むところがどんどん少なくなっているのを感じたからに他なりません。広告に割かれる紙面のスペースばかりがどんどん広がり、記事自体もなにか画一的で薄っぺらく、もう新聞をとるのはやめようと思っていたくらいです。まあ益々新聞離れが進むこのご時世、広告収入に頼るのは仕方がないと言えばそうなのですが、朝から面白くもない新聞をブツブツ言いながら読んで、月4000円も支払うのがバカらしくなってきたのです。

 ところが、そこまで腹をくくっていいたにもかかわらずやめることができなかった理由は、新聞を読むという行為が朝のお努めにとても役に立っていたからなのです。朝食を終えゆっくりコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、必ず催してくるのです。もうおわかりになりましたか。お通じです。健康的な日々を送るために、私にとって新聞は欠かせないアイテムであったのです。  

 そんなことから、健康のためにも新聞自体をやめるわけにはいかないのなら、読む新聞を変えようと決心しました。変えた新聞がドンピシャ!。面白いのです。読むところがたくさんあるのです。同じ事件を取り上げた記事でも、新聞社によってこれほど書き方が違うのかということをあらためて感じました。 

 まあこれは当たり前のことで  人それぞれ感じ方や考え方が違うのは今さら言うことでもありませんが、読む新聞ひとつとっても、先ほどの「一つの系の中にいることの弊害」をつくづく思いました。上から下から斜めから様々な方向から物事を見る大切さを感じるとともに、それには身の回りの当たり前の日常をちょっと変えてみるだけでもけっこう大きな変化を生むのだと思いました。

 もうひとつ感じたことは、何事もそれに深く関わったり考えなければ「楽」だということです。生きていれば楽しいことや面白いことばかりではありません。嫌なことにもぶち当たり、向き合わなければならないときもあります。それを避けて通ることもできないわけではありません。楽をしようと思えばそんなこと知らなかったことにして、無関心でいることもできます。しかし、しんどくても社会で起こっていることに興味を示し、自分の頭で考え続けることが大切だと思いました。無関心ほど怖い病気はありませんから。

 今の時代、様々なことを知ろうとするにはなにも新聞だけに頼る必要はないのですが、新聞に限ってみて見れば、まさにこの新聞は大手の新聞が書かないような問題でも、できる限りの関心を示し続け、伝えようとしているのがわかります。 

 宣伝に一役買ってしまいそうですが、その名は「東京新聞」です。西日本では販売店がないため届くのは1~2日遅れになりますから「新聞」とは言えないかもしれませんが、それでも読む価値は十分あると思います。

 なお、私が朝一番に興味深く読んであちこち切り抜かれた新聞は虫食い状態で、後で読む家人には大変不評であることを付け加えておきます。 

「治る」とは?

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 「治る」というのはいったいどういうことなのでしょうか? 転んで膝小僧を擦りむいたり足首をひねったりして怪我をしたところは、適切な処置をすればたいていの場合は時間が経てば治ります。ところが、傷口が治っていても、いつまでも長引く痛みや不快な症状が残るケースも少なからずあるようです。特に腰痛などカラダの内部で起こった傷や痛みは、目に見えないだけにやっかいなところがあります。  このブログでも2008年11月に「慢性痛」と題して痛みのことを書いています。そのとき書ききれなかったことや、新しい情報を今回は書きたいと思います。

 治ることと治らないことには、どこにどんな差があるのか。それを考えるために、まず「治る」とはどういうことなのかを考えてみましょう。  痛みや不快症状があって日常生活に支障を来しているうちは、まだ治ったとは言えないでしょう。それがどんどん治癒していくうちに、そのことにあまり意識が向かなくなる。 つまりなにかの拍子にちょっとまだ痛みを感じることはあっても、症状を忘れている時間のほうが長くなっている状態を「治った」というのだと思います。  ところが人によっては、少しでも痛みが残っているうちは、まだ治っていないと考える人もいるでしょう。だからその基準は一概には言えないと思いますが、ここのところの線引きがその後の経過に差が出る気がします。少しでも症状が残っているうちは無理をせず、安静にしてやりたいことも我慢すると考えるか、多少痛みが残っていても気にしないでやるべきことをこなしていくか。これはその人の性格にもよるのでしょうが、前者の場合はどちらかというと痛みが慢性化しやすいと言えそうです。  最近の研究では、慢性痛は脳を含めた中枢神経系に変化をもたらし、本来なら痛みとは感じられないような軽い刺激や、寒さや気圧の変化、また感情が昂ぶったりいやなことを思い出したりというきっかけでも痛みが起きたりすることがわかっています。  このことからも、痛みを感じるたびに強い不安を覚えたり、悲観的に考えたりすることを繰り返していると、脳の痛み系回路に悪影響を与え、治りを遅らせると考えられます。つまり心理的な要因が回復を妨げる大きな一因のひとつであるということです。

 本来、人のからだには痛みを抑制したり調整する能力が備わっているのですが、その神経回路が恐怖感や不安、抑うつ傾向によって歪められるらしいのです。  痛みや不快な症状があるときは、当然気分も落ち込みます。痛みが消えれば気持ちも上向きます。だから、痛みと気分は相互的だと言えます。しかし、いつまでも痛みを気にし、落ち込んだ気分を引きずって絶望的になったり非活動的になっていると、脳にも悪影響を与えるというわけです。ですから、もともとの痛みの原因となるところは治癒していても、いつまでも痛みを引きずる結果になります。  1%でも痛みが残っていればダメという完璧主義者はその点、回復力に差が出やすいかもしれません。多少の痛みがあっても、したいことをし、うまく気分転換ができる人は慢性化しにくいのでしょう。ですから、近年の痛みの研究から言えることは、できるだけ痛みは早期に処置すること。そして、慢性化した場合は、薬や身体的治療だけでなく、カウンセリングや認知行動療法などの心理的アプローチも同時に行っていくことが大切です。

 急性期の痛みは危険を教える大事な情報ですが、慢性期は無意味な痛みが多いようです。不必要な痛みに困らされることになるのです。  その痛みにこだわり、四六時中痛みのことを考えていても、良い結果はでないのです。なにごとも、「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですね。